。こんなことをしちゃいられねえ。俺はいいが、……俺はいいが、……なんとかして、殿様を……」
囈言《うわごと》のように口走りながら、旋風のように駈け出した。
佐久間町《さくまちょう》の辻で三枚駕籠をやとい宙を飛んで数寄屋橋うちのお役宅へ乗りつけると、甲斐守はついさっき本丸へおあがりになったというところ。
もういけない。
藤波は、呟くような声でお帰りを待たしていただきたいと言って脇書院《わきしょいん》へ通る。お下城《さがり》になった顔をひと眼見てここで腹を切る覚悟。
万感《ばんかん》胸に迫って、むしろなんの感慨もないにひとしい。端座してしずかに庭のほうを眺めやると、築山《つきやま》の下に大きな白膠木《ぬるで》のもみじがあって、風が吹くたびにヒラヒラと枯葉を飛ばす。さながら、自分の最期を見ているようである。
それからふた刻。……正午近いころになって、ただいまお下城になったというしらせ。
驕慢で通してきた俺だ。せめて、最後もそれらしく、と突兀《とっこつ》と肩をそびやかして控えているところへ、甲斐守がかるがるとした足どりで入って来て、座にもつかぬうちに、
「おお、藤波か。さすがは江
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