く朝日がのぼったばかり。糀町《こうじまち》の心法寺原《しんぽうじはら》に、いちめんに霜柱が立っている。
 永田町よりの地ざかいに心法寺という寺があって、その塀のそばに、天鵞絨巻網代黒《びろうどまきあじろぐろ》の供乗物《とものりもの》が三つ、さんざんに打ちこわされてころがっている。簾はちぎれ、底板はぬけ、長棒は折れ、ほとんど形のないまでにこなごなになっている。
 藤波が、定廻りからのしらせで、下ッ引をひとり連れて、霜柱を踏みくだきながら、息せき切って原の中へ入って行くと、黒羽二重の素袷を着流しにした、ぬうとした男が、こちらへ背中をむけ、駕籠のそばへしゃがみこんでいる。
 はッとして、立ちどまって眺めると、案にたがわず、北町奉行所のケチな帳面繰、顎十郎こと仙波阿古十郎。
 まるで、匂いでも嗅ぐかのように、駕籠に顔をおっつけていたが、そのうちに、のっそり立ちあがると、日和《ひより》でも見るように、うしろ手を組んで、ぼんやりと空を見あげている。
 藤波はキッと顔をひきしめると、足ばやに顎十郎のそばに進んでゆき悪叮嚀《わるていねい》な口調で、
「おお、仙波さん。そこでなにをしておいでです。鳶でも
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