るようなことになったら、それこそ一代の不面目《ふめんもく》。月番奉行の役柄の手前、のめのめと職にとどまっているわけにはゆかぬ、お役御免をねがうつもり。……どうだ、藤波、勝算《しょうさん》があるか。……それとも、また、北の顎十郎にシテやられるか」
藤波は返事をしない。削《そ》ぎ立てたようなトゲトゲした顔を狷介《けんかい》にふり立て、けわしく眼を光らせながら、そっぽをむいている。
名人気質とでもいうのか、辛辣で傲慢で変屈で、あまりひとに好かれぬ男。三百六十五日、機嫌のいい日はないのだが、とりわけこのごろは虫のいどころが悪いらしい。
北町奉行所の与力筆頭、森川庄兵衛の甥の仙波阿古十郎。出来そこないの冬瓜《とうがん》のような方図《ほうず》もない顎をぶらさげ、白痴《こけ》か薄のろかと思われるような間のびのした顔をしているくせに、感がいいというのか、どんな入りくんだアヤでも、なんでもないようにスラスラと解く。もう一歩というところで、いつもひと足さきに出しぬいてしまう。それに、やりかたが憎い。自分の手柄を一切合財《いっさいがっさい》、叔父の庄兵衛になすりつけ、どこを風が吹くといったようにすっとぼけている。
今までは北町奉行所などはあるかなしかの存在。番所といえば南のことにきまっていたくらいなのに、この男が北へあらわれてから、急にこちらの旗色が悪くなった。江戸一と折紙をつけられた藤波の肩書に、これでもう三四度も泥をぬられた。
甲斐守はなんとも言えぬ苦味のある微笑をうかべながら、ジロリと藤波の涙を眺め、
「聞くところによれば、数多い、江戸じゅうの陸尺、中間、馬丁などをことごとく身内にひきつけ、それらを手足のように自在に働かすそうな。多寡が番所の帳面繰だというに、ふしぎな男もあればあるもの」
藤波は、キッと顔をふりむけると、嘲《あざけ》るような語気で、
「むこうが中間、小者なら、こちらは、同心、加役《かやく》。……定廻り、隠密、無足《むそく》、諜者《ちょうじゃ》。……下ッ引まであわせると五百二十人。藤波は、死んでしまったわけじゃございません」
「ふむ。……では、明後日の朝までに、きっと事をわけるか」
「かならず、しおうせてごらんにいれます」
「もし、しそんじたら」
藤波は、驕慢な眼ざしで甲斐守の眼を見かえし、
「生きちゃアおりません」
霜の朝
寒い朝で、ようやく朝日がのぼったばかり。糀町《こうじまち》の心法寺原《しんぽうじはら》に、いちめんに霜柱が立っている。
永田町よりの地ざかいに心法寺という寺があって、その塀のそばに、天鵞絨巻網代黒《びろうどまきあじろぐろ》の供乗物《とものりもの》が三つ、さんざんに打ちこわされてころがっている。簾はちぎれ、底板はぬけ、長棒は折れ、ほとんど形のないまでにこなごなになっている。
藤波が、定廻りからのしらせで、下ッ引をひとり連れて、霜柱を踏みくだきながら、息せき切って原の中へ入って行くと、黒羽二重の素袷を着流しにした、ぬうとした男が、こちらへ背中をむけ、駕籠のそばへしゃがみこんでいる。
はッとして、立ちどまって眺めると、案にたがわず、北町奉行所のケチな帳面繰、顎十郎こと仙波阿古十郎。
まるで、匂いでも嗅ぐかのように、駕籠に顔をおっつけていたが、そのうちに、のっそり立ちあがると、日和《ひより》でも見るように、うしろ手を組んで、ぼんやりと空を見あげている。
藤波はキッと顔をひきしめると、足ばやに顎十郎のそばに進んでゆき悪叮嚀《わるていねい》な口調で、
「おお、仙波さん。そこでなにをしておいでです。鳶でも飛んでいますか」
顎十郎は、あん、と曖昧な音響を発しながら藤波のほうへふりかえると、例のとほんとした顔つきで、
「これは、これは、たいへんにお早がけから……」
と言っておいて、ぼてぼてとした冬瓜なりの顎を撫でながら、
「いや、鳶などはおりません。……実はね、駕籠などがふってくる陽気でもないがと思って、いま、つくづくと空を眺めていたところです。……ごろうじ。どうもてえへんな壊れかたじゃありませんか。まるで、木《こ》ッ葉《ぱ》微塵《みじん》といったていたらく。……天から落ちてきたのでもなければ、こんなひどい壊れかたをするはずがない。……するてえと、これは、やっぱり神隠し。……かわいや、十三人のきりょうよしは、からす天狗にひっさらわれて、御嶽山へでも持って行かれ、今ごろは、さんざんに口説《くど》かれて困っているころでしょう」
と、油紙に火がついたようにまくし立てながら、足もとに落ちていた鳥の尾羽《おば》のようなものを拾いあげて藤波のほうへ差しだし、
「ほら、この通り。その証拠に、ここに天狗の羽根が落ちています」
藤波は額に癇の筋を立てながら、噛んではき出すような口調で、
「仙波さん、
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