顎十郎捕物帳
御代参の乗物
久生十蘭
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)神隠《かみかく》し
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)紀州侯徳川|茂承《もちつぐ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)お中※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ちゅうろう》
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神隠《かみかく》し
もう子刻《ここのつ》に近い。
寒々としたひろい書院の、金蒔絵《きんまきえ》の京行灯《ぼんぼり》をへだてて、南町奉行池田甲斐守と控同心の藤波友衛が、さしうつむいたまま、ひっそりと対坐している。
深沈《しんちん》たる夜気の中で、とぎれとぎれに蟋蟀《こおろぎ》が鳴いている。これで、もうかれこれ四半刻。どちらも咳《しわぶき》ひとつしない。
江戸一といわれる捕物の名人。南町奉行所の御威勢は、ひとえにこの男の働きによるとはいえ、布衣《ほい》の江戸町奉行が、貧相な同心づれとふたりっきりで対坐するなどは、実もって前代未聞、なにかよくよく重大な事態がさしせまっているものと思われる。
きょうの夕刻、お曲輪《くるわ》にちかい四谷見附附近で、なんとも解《げ》しかねるような奇異な事件が起った。
十月十三日は、浅草どぶ店《だな》の長遠寺《ちょうえんじ》の御影供日《おめいくび》なので、紀州侯徳川|茂承《もちつぐ》の愛妾、お中※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ちゅうろう》の大井《おおい》は、例年どおり御後室《ごこうしつ》の代参をすませると、総黒漆《そうくろうるし》の乗物をつらねて猿若町《さるわかまち》の市村座へまわり、申刻《ななつ》(午後四時)まで芝居を見物し、飯田町|魚板《まないた》橋から中坂をのぼり、暮六ツ(午後六時)すこしすぎに四谷御門、外糀町口《そとこうじまちぐち》の木戸(四谷見附交叉点)を通ってお上屋敷(いまの赤坂離宮のある地域)の御正門へ入ったが、外糀町口の木戸から正門までのわずか五六町のあいだ、――長井《ながい》の山とお濠《ほり》と見附と木戸でかこまれた袋のような中で、十三人の腰元が乗物もろとも煙のように消えうせてしまった。
番所の控えには、『酉刻《むつ》上刻、紀州様御内、御中※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]以下〆二十二挺』と、ちゃんと記帳されたのに、正門を入ったときは、それが、わずか九挺になっていた。……ところで、その十三挺の乗物はこの袋の中から出ていないのである。
麻布善福寺《あざぶぜんぷくじ》のヒュースケン襲撃事件があって以来、にわかに町木戸がふやされ、暮六ツを合図に木戸をとざし、それ以後の通行はいちいち記帳されることになっている。
長井の赤土山について安珍坂《あんちんざか》をおりたとすると、青山一丁目|権田原《ごんだわら》の木戸。
お濠にそって紀伊国坂をくだったとして、そこから外桜田《そとさくらだ》へぬけるには、喰違御門か赤坂御門。
溜池のほうへ行くには赤坂見附の木戸。
赤坂|表町《おもてまち》へは弾正坂《だんじょうざか》の辻番所。
どんなことがあっても、いずれかの桝形《ますがた》か木戸で誰何《すいか》され、お改めをうけなければならぬはずなのに、乗物にも徒歩《かち》にも、それがぜんぜん通っていない。くどいようだが、木戸うちからは出ていないのである。
消えうせた十三人の腰元のうち七人は、ひと口に『那智衆《なちしゅう》』といわれる新那智流の小太刀の名手《つかいて》。しばしば諸侯から所望《しょもう》されたほどの名誉のものどもで、毎年十月十五日の紀州侯の誕生日には、おなじく御休息《ごきゅうそく》の染岡《そめおか》の腰元と武芸の試合を御覧にいれることになっているが、江戸の下町からあがった染岡の腰元どもの手にあうはずがない。毎年、大井の組が勝をとって、お褒めにあずかってきた。
その恒例の十五日は明後日にせまっている。局《つぼね》あらそいというのはよくあることだから染岡が大井の寵をねたみ、相手の力をそぐために、じぶんの局へでも引きこんで監禁《おしこ》めてあるのではないかと思い、奥年寄の老女に命じて、ひそかに染岡の局をうかがわせたが、これは無駄骨におわった。東門、巽門《たつみもん》、紀伊国坂門《きのくにざかもん》、鮫橋門《さめがはしもん》と、はじめから、十二のどの門も通っていないのである。
こうなれば、もう神隠しにでもあったか、大地に吸いこまれてでもしまったかと思うよりほかはない。あっけにとられて顔を見あわせるばかりだった。
もっとも、あとになって考えると、この日、ちょっと妙なことがあった。
本迹枢要《ほんじゃ
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