くすうよう》、陀羅尼品《だらにぼん》の読経《どきょう》がすんで、これから献香花《けんこうか》の式に移ろうとするとき、下座《しもざ》にいたひわ[#「ひわ」に傍点]という腰元が、とつぜん、あッと小さな叫び声をあげて顔を伏せてしまった。となりに坐っていたお伽坊主《とぎぼうず》の朝顔という腰元が、そっとたずねると、いま、お祖師《そし》様が憐れむような眼つきで、じッとわたしの顔をごらんになった、と妙なことを口走った。
一行が市村座へついたのは巳刻《よつ》(午前十時)すぎで、茶屋からすぐ桟敷へ通ると、簾《みす》をおろして無礼講《ぶれいこう》の酒宴がはじまった。
狂言は黙阿弥《もくあみ》の『小袖曽我薊色縫《こそでそがあざみのいろぬい》』で、小団次《こだんじ》の清心《せいしん》に粂三郎《くめさぶろう》の十六夜《いざよい》、三十郎《さんじゅうろう》の大寺正兵衛《おおでらしょうべえ》という評判の顔あわせ。
湧きかえるような掛け声をあびながら小団次が強請《ゆすり》の啖呵《たんか》を切っていると、桟敷の下で喧嘩がはじまった。足を踏んだ、踏まぬという埓もない酔漢同士のつかみあいだったが、このてんやわんやの騒ぎの最中に、どこからともなく、こんな呼び声がきこえてきた。
「帰りが、こわいぞ。帰りがこわいぞ」
海洞《ほらあな》に潮がさしこんでくるような異様に朧《おぼ》ろな声で、はっきりと三度までくりかえした。
なにしろ、そんな騒ぎのおりからでもあるし、大して気にするものもなかったが、先刻《せんこく》のひわ[#「ひわ」に傍点]という腰元だけは、これを聞くと、また血の気をなくして、
「あ、あれは、お祖師様のお声です。……ああ、怖い、おそろしい」
と、耳をふさいで突っぷしてしまった。
なにをつまらぬ、で、そのときは笑いとばしたが、このことが、なんとなく不気味に朝顔のこころに残った。
「ひわ[#「ひわ」に傍点]と申すものは、日ごろから癇のつよい娘でございまして、よく痙攣《ひきつ》けたり倒れたりいたします。たぶん、夢でも見てそんなことを口走ったのでございましょうが、またいっぽうから考えますと、日ごろの信心を愛《め》でられ、お祖師様がひわ[#「ひわ」に傍点]の口を通して、ご示験《じげん》くださったのではありますまいか。埓もないことのようですが、ひとこともうし添えます」
という大井の申立てだった。
まだひと通りもある宵の口に、十三人もいっぺんに神隠しにあうなどというのは前代未聞のことで、ただただ、奇ッ怪というよりほかはなかったのである。
南と北
甲斐守がふいと顔をあげる。
老中阿部伊勢にみとめられ、小十人頭《こじゅうにんがしら》から町奉行に抜擢《ばってき》された秀才。まだ、三十そこそこの若さである。蒼白い端正な面《おもて》を藤波のほうにふりむけると、
「言うまでもないことだが、古くは絵島生島《えしまいくしま》事件。近くは中山法華経寺《なかやまほけきょうじ》事件というためしもある。……さなきだに、とかくの世評のある折柄、御三家の奥女中が芝居見物の帰途、十三人もそろって駈落ちしたなどと取沙汰されるようなことにでもなれば、徳川家《おかみ》御一門の威信にかかわるゆゆしい問題。……さような風評の立たぬうちに、いかなる手段《てだて》を講じても事件の本末をたずね、十三人の所在をあきらかにせねばならぬ」
といって、言葉を切り、
「たんに、世評のことばかりではない。実は、このことは、まだ茂承《もちつぐ》さまには内密にしてある。……存じてもおろうが、紀州侯は、諸事ご厳格な方であらせられるから、このようなことがお耳に入ったら、お忿怒《いかり》もさぞかし、とても、二人や三人の腹切りではあいすむまい。家事不行届のかどをもって、大勢の怪我人が出来よう。阿部さまも、この点をことごとく御心痛。大勢のいのちにかかわることであるから、たとえ草の根をわけても、明日いっぱいに探しだし、お催しのある十五日の朝までに、かならず十三人を局にもどしおくようにと命ぜられた。……それにつけて……」
と言いかけて、チラと美しい眉のあたりを翳《かげ》らせ、
「この月は、当南町奉行所の月番。……それにもかかわらず、北町奉行所の播磨守へも同様のお沙汰があったというのは、いかにも心外だが、かような緊急を要する事件であって見れば、それもまた止むをえぬ処置かも知れぬ。……ことに、この節は、われわれの番所は失策が多く、とかく北におさえられてばかりいる。……どんなお取りあつかいを受けても、まず……一言もない」
甲斐守は、膝に手をおいて、虫の音に聴きいるような眼つきをしていたが、急に激《げき》したような口調になって、
「しかし、なんとしても、こんどばかりは負けられぬ。……万一|北町奉行所《きた》に出しぬかれ
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