たことを言っておいて、
「それはそうと、今朝ほどお手紙をさしあげましたが、まだ御落手《ごらくしゅ》にはなりませんでしたか」
 藤波は、苦りきった顔で、
「おう、誰かぼやぼや言っていると思ったら、仙波さんですか。お手紙はいかにも拝見しましたが、なにやらいっこう通じない文意で、途方《とほう》にくれたこってした。お手紙の趣きでは、なにか私がたいへんな見当ちがいをしているとのことでしたが、間違いだろうとどうだろうと、あまり人のことに口を出さないほうが、おたがいにやりいいと思うんですがねえ。あなたのお節介は今にはじまったこっちゃねえが、親切も度がすぎると、礼にはずれる。つつしんだほうがいいでしょう」
 顎十郎は、意にも介《かい》さない様子で、
「そのお腹立ちは存じておりますが、今度ばかりは、どうでも、御忠告せねばならぬような羽目で、いやがられるとは知りながら、あんなお手紙をさしあげたんでしたが、この様子を見ると、やはり私の忠告をおもちいにならなかったと見える。案外あなたもさっぱりなさらん方ですな」
「さっぱりしないのは生れつきで、いまさらどうにもしようがない。根がしつっこい男なんです」
「そりゃアよく知っていますが、しかし、いつまでこんなことを言っていたってしょうがない。……実のところ、こんどの件には、いろいろあなたのご存じないことがあるんです」
「それは、いったい、どんなことです」
 顎十郎はうなずいて、
「さよう、それをお話しするとわかっていただけると思うんだが、どうにも申しあげるわけにはゆかない」
 藤波はいらだって、
「ねえ、仙波さん、決着《けっちゃく》のところ、私にどうしろというんです。うるさいいざこざはぬきにして、あっさりそこだけを伺おうじゃないか」
 顎十郎は、トホンとした顔つきで藤波を見かえしながら、
「ザックバランにいうと、この事件から手をひいていただきたいんです」
 藤波は千太のほうへ振りかえって、
「千太、聞いたか。先生が奇抜なことをおっしゃっていられる。……お前らのでる幕じゃないから、引っこみをつけろというんだが、いったいどうしたもんだろうな」
 千太はせせら笑って、
「えへへ、ご冗談、箱根山からこっちにア化物あ出ないという。引っこみをつけるなア、こっちのこっちゃあねえ、そこに突っ立ってる顎化けのほう……」
 顎化け……と、しまいまでは言いおわらなかった。咄嗟に、顎十郎の右手が動いて、チャリンと鍔鳴りがしたと思うと、
「エイッ」
 鞭をふるほどに、空気が動いて、また鍔鳴りの音。それでおしまい。ふたりの眼には、顎十郎の右手が、チラと動いたのが見えたばかり。そのほかには、いっこう、なんの変てつもない。
 藤波も千太も、顎十郎の凄い手練は、じゅうぶん知っている。
 いつか氷川さまの境内で、ドキッとするような目にあっている。が、いっぽう、大した落着きかたで、めったにひとを斬るほど血気にはやらないことも知っている。また例のおどしだと思ったものだから、負けん気の千太、ふふんと鼻で笑って、なにをしゃらくせえ、と言うつもりなのが、ただ、
「ウワ、ウワ」
 としか言えない。と見ているうちに、唇のはしから、紅い棒でもたらしたように、血が顎のほうへ筋をひく。
 いつ、どうして斬ったのか、唇にも歯にもふれず、左頬の内がわから、斜めうえに口蓋《こうがい》のほうへ、浅く斬れている。切尖《きっさき》がふれたわけではない。一種の気あい突き。抜刀一伝《ばっとういちでん》流、丸目主水正《まるめもんどのしょう》の独悟剣《どくごけん》、刀影《とうえい》三寸動いて肉を斬るというやつ。
 顎十郎は、泰然《たいぜん》として懐手。長い顎をしゃくるようにしながら、
「むかし、俺が甲府勤番にいたとき、俺の前で、うっかり顎を撫でたばっかりに、ふたりまで命を落したやつがいる。いつもおどしだと思っちゃあいけない。……が、そんなこたア、まあどうでもいい。藤波さん、さっきの話のつづきをしようじゃあないか」
 といって、言葉の調子をかえて、
「手前はずいぶんお節介だが、それはそれとして、手を引けの、引っこめのと、きいたふうなことを言ったことは、今までただの一度もない。それを、こういうからには、よくよくわけのあることだと思ってください。……あなたはなにもご存じないが、真実のところ、この仕事ではたしかにあなたの分《ぶ》が悪い。はっきりいうとあなたは飛んでもない奴の味方をしているんです。といったばかりでは、おわかりないでしょうが、あなただって馬鹿じゃあない。ことの起りは、お家騒動にからまっているということは、あなたも御承知のはず。……夫婦喧嘩は犬も喰わないというが、お家騒動となると、こいつアいっそう手がつけられない。どっちの味方をしたって、どっちみち、良くはいわれない。うっかりすると、ひどい羽目に落ちこんで、抜きさしならないことになるんです。……ことに今度の場合なんざ、あなたはたしかに見当ちがい。そればかりではない、ひょっとして、あなたの出ようによっては、十二万五千石がフイになってしまう。……源次郎というのが乞食の子だろうと、そうでなかろうと、それを突つき出して見たって、それがどうだというんです。かくべつ、なんの手柄にもなりゃあしない」
 てれ臭そうに頭を掻き、
「とんだ御説法《ごせっぽう》になりましたが、筋をいやアそんなわけ。根本《こんぽん》のところは、こんなつまらないことで、あなたをしくじらせたくないと思うから。……もっとも、あなたにばかり、手をひかせようと言うのじゃない。こういう手前も、ただいまかぎり、きっぱりと引っこみをつけますから、そこんところを買って、ひとつあなたも、これで段切《だんぎ》れということにしてくださいませんか。……手前の見こみじゃ、別にわれわれが手をださずとも、時期がくりゃあ、源次郎と萩之進は、黙ってたって古河へ帰るはずなんです」
 藤波は、きっぱりした顔になって、
「そうですか、話はよくわかりました。俺も手をひくからお前も手をひけという。なにも役所の仕事じゃあるまいし、いわばほんの頼まれごと。そうまでいわれて、意固地《いこじ》にいやとはいいきれないところだが、それにしちゃア、あなたのしかけが悪い。話だけならともかく、千太が、こんなざまにされた上で、ああそうですかじゃ、いかにもおどされて引っこんだようで、私の顔が立たない。せっかくだが、その件はおことわりします」
 と、膠《にべ》もない。

   千人悲願《せんにんひがん》

 小塚原《こづかっぱら》天王の祭礼で、千住大橋の上では、南北にわかれて、吉例の大綱《おおづな》ひき。深川村と葛飾村《かつしかむら》の若衆《わかいしゅ》が、おのおの百人ばかりずつ、太竹ほどの大綱にとりつき、エッサエッサとひきあっている。両方の橋のたもとはこの見物で、爪も立たないような大変な人出《ひとで》。
 こういう騒ぎをよそにして、岡埜《おかの》の大福餅《だいふくもち》の土手下に菰《こも》を敷いた親子づれの乞食。親のほうはいざりでてんぼう。子供のほうは五つばかりで、これも目もあてられない白雲《しらくも》あたま。菰の上へかけ碗をおいて、青っ洟をすすりすすり、親父といっしょに、間がなしにペコペコと頭をさげている。
 いわゆる非人やけというやつで、顔色がどす黒く沈んで、手足が皹《ひび》だらけ。荒布《あらめ》のようになった古布子をきて、尻さがりに繩の帯をむすんでいる。どう見たって腹っからの乞食の子だが、することがちょっと変っている。通りすがりに一文、二文と、かけ碗のなかへ鳥目《ちょうもく》を落すひとがあると、妙に鼻にかかった声で、
「おありがとうございます」
 といいながら、指先で鳥目をつまんでは、そっと草むらへ捨てる。かくべつ目立たないしぐさだが、いかにも異様である。
 顎十郎は橋のたもとに突っ立って、ひと波に揉まれながら、ジッとその様子を眺めていたが、ふっとひとり笑いすると、
「なるほど、あれが源次郎さまか。……多分こんなことだろうと、最初《はな》っから睨んでいた通り、こんなところで乞食の真似をしている。……それにしてもよく化けたものだ。白痴《こけ》づらに青っ洟、これが十二万五千石のお世つぎとは、誰だって気がつくはずはあるまい。『すさきの浜』の故事といい、乞食じたての手ぎわといい、察するところ、萩之進というやつは、年は若いが、よほどの秀才と見える。なるほど大したものだなあ」
 と、つぶやいていたが、急に気をかえて、
「ここにいるとわかったら、これで俺の役目はすんだようなものだが、それにしちゃア場所が悪い。どれほどうまく化けこんでも、いずれ藤波に見やぶられるにきまっている。萩之進のほうじゃ、こうまで大掛りに探されているとは知らないから、それでこんなところでまごまごしているんだろうが、こりゃア実にどうもあぶない話。そばへ行って、それとなく耳打ちをしてやろう」
 といいながら、ひと波をわけて岡埜の前をまわり、土手をおりて、ふたりのほうへ近づこうとするそのとたん、骨に迫るようなするどい気合とともに、右の肩のあたりに截然《せつぜん》とせまった剣気。思わず、
「オッ」
 と、叫んで咄嗟に左にかわし、一気に土手下まで駈けおりて足場を踏み、柄《つか》に手をかけてキッとふりむいて見ると、誰もいない。岡埜の幟《のぼり》が風にはためいているばかり。
 ビッショリと背すじを濡らす悪汗《わるあせ》をぬぐいながら、さすがの顎十郎も顔色をかえて、
「実に、どうも凄い剣気だった。うっかりしていたら、まっぷたつになるところ。いまの居合斬《いあいぎ》りは柳生新陰流《やぎゅうしんかげりゅう》の鷲毛落《わしげおとし》。これほどにつかえるやつは、日本ひろしといえども二人しかいない。ひとりは備中《びっちゅう》の時沢弥平《ときざわやへい》、もうひとりは、越前大野《えちぜんおおの》の土井能登守《どいのとのかみ》の嫡子土井|鉄之助利行《てつのすけとしゆき》。が、このほうは、もう十年も前からこの世にいないひと。それにしても時沢弥平が、この俺に斬ってかかる因縁《いんねん》はないはずだが……。奇態《きたい》なこともあるものだ。……俺のいたところは土手のおり口だったから、岡埜の裏手までは、すくなくとも六間はある。どれほど精妙な使い手でも、俺に斬りかけておいて、あれだけのところを、咄嗟に飛びかえり、建物のかげに身をかくすことなど、いったい出来るものではない。土手下まで駈けおりたのが大幅で三歩、時間にすればほんのまばたきふたつほどする間。そこで振りかえって見れば、もう人影はない。とてもそんなことが出来ようわけがない。とすると、俺の気だけだったのか知らん」
 首をふって、
「いやいや、そんなことはない。たしかにまっぷたつにされたような気持だった」
 といいながら、また額の汗をぬぐい、
「しかしまあ、どうあろうと、それはすんだことだ。いよいよもって物騒な形勢だから、黙っているわけにはゆかない。いかに悪因ばらいとはいいながら、あんなやつに殺《や》られてしまっちゃなにもならない。どうでもここは立退かせて、もっと別なところへ……」
 といいながら、また一歩ふみだそうとすると、千鳥の啼《な》くような鋭い空《そら》鳴りがして、どこからともなく飛んできた一本の小柄《こづか》、うしろざまに裾をつらぬき、ピッタリと前裾のところを縫いつけた。ちょうど足架《あしかせ》をかけられたように、裾にひきしめられて、足がきすることも出来ない。顎十郎はまた、アッと恐悚《きょうしょう》の叫びをあげ、
「こいつアいけない。あの二人に近づこうとすると、かならずやられる。いわんや、俺の手にたつような相手じゃない。へたにガチ張ったら、たったひとつの命を棒にふる。こういうときは、尻尾を巻いて逃げるにかぎる」
 蹲《つくば》って小柄をぬきとって、草の上へほうりだすと、頭をかかえて、むさんに川下のほうへ逃げだした。

 それから十日ほどのち、向島《むこうじま》の八百松《やおまつ》の奥座敷。顎十郎と藤波のふたり。
「……御承知の通り、江
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