戸の洲崎は、洲崎の浜なんぞとはいわない。石口十兵衛からその話を聞いたとき、手前はすぐ、こりゃあ『貞丈雑記《ていじょうざっき》』にある例の故事だと気がついた。むかし、……さる身分の高い方が、通りすがりの法印に、恐れながらあなたのお顔には乞食の相がある、といわれ、国をおさめる前に、悪因をはらっておこうというので、筑前小佐島《ちくぜんおさじま》のすさきの浜というところへ出かけ、網をひいている漁師から、乞食のていで、魚をもらって歩かれたという話がある。……私の推察では、評判どおり、ほんとうの源次郎は、やはりあのとき百姓家の離れで死に、いまの源次郎は、たぶん、通りすがりの乞食から買いとった子供なのに相違ないと思った。乞食の子供だから乞食の相があるのはあたり前のことで、雪曽という坊主が、それを看破したのはまた無理もない話。萩之進のほうは覚えのあることだから、大いに恐惶《きょうこう》して、なんとか乞食の相をはらいたいと思い、いまの故事に倣《なら》って、千人悲願を思い立ち、そこで書きのこした一筆《いっぴつ》が『すさきの浜』……」
 藤波は頭をかき、
「なるほど、そういうわけだったんですか。そんなこととは夢にも知らず、非人の餓鬼のそうざらいをしていたなんぞは、実にどうも迂濶な話。こりゃアどうもお恥ずかしい」
 顎十郎は手でおさえ、
「まあまあ、そう悄気《しょげ》られるにはおよばない。手前にしてからが、ただもうほんの思いつき。偶然そんな話を知っていたというだけの功名。大して自慢にもなりゃアしません。……そりゃアそうと、例の土手の斬りかけの件、あなたもひどい目にあったそうだが……」
「まったくありゃあ凄かった。びっくり敗亡《はいぼう》して、見得もはりもなく逃げだしました」
「手前もその通り、てんで、地面に足がついたとも思われませんでしたのさ。……ところで、藤波さん、あの物凄い剣気のぬしは、死んだと思われていた土井鉄之助だったのですぜ」
「えッ」
「ところで、まだ驚くことがある。土井鉄之助こそは、乞食の子の実の親。産土まいりの帰りみち、ちょうどそこへ通りあわして、家老の志津之助へ自分の子供を売った当人」
「ほほう」
「本来なら土井鉄之助は、越前大野の四万一千石をつぐはずだったが、継母《ままはは》のために廃嫡《はいちゃく》され、いっそ気楽な世わたりをしようと、非人の境涯へ身を落したが、もとを正せばおなじ清和源氏《せいわげんじ》。土井|摂津守《せっつのかみ》利勝《としかつ》からわかれたおなじ一家。数馬なんかにくらべると、このほうが血筋が近い。いわばこれも因縁ごと、願ってもない決着だというべきでしょうが、残った問題というのは、替玉をして相続をねがいでたという件だ。が、このほうもしらを切って押しとおせば、どうにか無事におさまろうというもの。数馬や数馬の伯父のほうは、土井鉄之助が正面切っておさえつけるはずですから、そういう事実の前には、グウともいえるわけがない」
 藤波は舌を巻いて、
「こりゃアどうも、いよいよいけない。すると私がジャジャ張ったら、せっかくの機縁もフイにしてしまうところでしたな。いや、いい教訓を得ました。……これですっかり話はわかったが、すると土井鉄之助はあのとき……」
 顎十郎はうなずいて、
「そうですよ。千人悲願をとげさせるまで、どんな奴でも一歩も寄せつけまいと、かげながら守っていたというわけ」
「すると、どっちみち、われわれじゃあ寄りつけなかった。あなたは途中で手をぬいたからいいようなものの、私のほうは、まるっきりの無駄骨折り、こいつあ馬鹿を見ました」
 顎十郎はへへら笑って、
「ほら御覧なさい。だからたまにゃあ、ひとのいうことも聞くもんです。あなたはすこし強情だよ」



底本:「久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1−13−24]」三一書房
   1970(昭和45)年3月31日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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