礼をとらねばならぬかご存じないわけはない。それを知りつつ、主家の名前だけは、骨が舎利《しゃり》になっても口外しまいという忠義一徹。なりもふりもかまわず、礼儀も捨てて押しとおそうとなさるお心ざしには、まことに感服いたしました。手前といたしましては、あなたのひし隠しにしていらっしゃることを知りながら、洒落や冗談でつつきだしたわけじゃない。……そうまで覚悟をきめて主家の名をひし隠しにしようとなさるからは、こりゃあよくよくの大変。たぶん十二万五千石がフイになるかどうかというきわどい瀬戸ぎわなんだと思います。……お先くぐりをするようですが、つまり、私にその難場《なんば》をなんとかしてくれといわれる」
「はい、いかにもその通り」
「して見りゃア、どうせそこへふれなきゃ筋がとおらない話。と、そう思いましたから、手っとり早く行くように、私のほうから切りだして見たまでのこと。……私はお目付でもなければ、老中でもない。……入りくんだ内幕《うちまく》を聞いたって、ひとに洩らす気づかいはない。また、それほどの酔狂でもありません。あなたの朴訥《ぼくとつ》さに惚れましたから、どんなことか知りませんが、私のおよぶことなら、根かぎりお力ぞえいたしますから、どうか、肩のしこりをとって、ありったけのことをすっかりぶちまけてください」
このそっけない男が、いったいどうしたというのか、きょうに限って、いやに親身なことをいう。ふだんを知っているひとが聞いたら、さぞおかしかろう。石口十兵衛は、まっとうに受け、この日ごろの労苦のせいか、ひどく落ちくぼんだ老いの目に、にわかに涙をみなぎらせながら、
「これが始めての御面識。唐突に推参いたしましたのみならず、重ねがさねの御無礼。年がいもなく、さまざまと狼狽《うろた》えたさまをお目にかけましたにもかかわらず、お笑いもなく、お咎めもなく、およぶかぎり御加勢くださるとのお言葉、ありがたいとも、かたじけないとも、申そうにも早や……」
あとは涙声になって、そのままさしうつむく。さすがに大藩の家老たるだけあって、はた目にもそれと察しられる見識、器量。それが、あさましいまでに取りみだし、露地奥の貧乏長屋の古畳の上に両手をついて、肩をふるわせながら咽《むせ》び泣いているさまは、いかにも哀れぶかい。
石口十兵衛は、やがて顔をあげ、
「仔細は次の通り。……先君、利与《としよし》さ
前へ
次へ
全17ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング