のに自分の行くさきを知られたくないから、もうひとつは、手前に屋敷のありかをさとらせまいため……」
「………」
「なにもそんなに、びっくりしたような顔を、なさらなくてもよろしい。種をあかせばわけのないことなんです。……拝見いたしますところ、あなたのお羽織の背中に、俗にアンダ皺という、背もたせのぶっちがい竹の跡がついている。お屋敷の乗物ならいうまでもない。町駕籠にも、しょうしょうましなあんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]のほうならば、背がかりに小蒲団をかけてあるから、羽織に竹の跡などがつくわけがない。……また土佐屋の切手にしろ、ただそれを買うだけのためなら、なにもわざわざ日本橋までおいでになるこたアない。土佐屋は田村町にもあれば、この本郷にもたくさんあります。つまり、自分の行くさきと屋敷のある方角をくらますのが、その目的」
「………」
「さて、真砂町一丁目までくると、更科《さらしな》の前で駕籠をかえし、二階へあがって硯《すずり》と筆をかり、名札にちょっと細工をした」
「………」
「石口十兵衛とあるところへ、山と十と|ゝ《ちょん》を書きたして、岩田平兵衛となおした。……ここらがあなたの有難いところ。名札紙《なふだがみ》を買わせて、新しく書けばいいものを、たとえ紙一枚でも無駄になさらぬ節倹なお心がけ。一国をあずかる御家老とは、実にかくありたいもの。いや、冷かしてるんじゃありません。ほんとうの話。……ところが、どうして更科というかというと、失礼ながらあなたのお顎に、お蕎麦《そば》のくずが……」
 あわてて顎を撫でるので、さすがの顎十郎、たまりかねてヘラヘラと笑いだし、
「ついているとは申しておりません。もっと確かな証拠は、あなたの襟にさした爪楊子《つまようじ》。その平《ひら》に、真砂町更科と刷ってある。いけませんね、これじゃアわざわざ日本橋を大まわりして来たかいがない。いわばまるであけすけ。いくら突っぱってもこう尻ぬけじゃなんにもならない」
 石口十兵衛は、膝に拳をおいて、凝りかたまったようになっていたが、突然、畳の上に両手をすべらすと頭をさげ、
「御眼力、……御明察。かくほどまでとは、思いもかけませんことで……なんともはや……」
 顎十郎は、またとぼけた顔つきになって、
「いや、そうまでおっしゃることはいりません。あなたのように細心緻密な方が、ひとにものをたのむときは、どういう
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