目もくれず、
「いわずと知れた、土井大炊頭《どいおおいのかみ》さまの御家中、なんてことはどうでもいい。いかにも御主家の名はうけたまわりますまい。おっしゃってくださらなくても結構。……それはともかく、下総の古河といえば、江戸の東のかため、そこのお国家老《くにがろう》ということになれば、なにかと御用多なこッてしょう。いや、お察しいたします」
 客はむやみに手をふって、
「滅相もない。手前は決して……」
「などとあわてられることはない。間違いなら、間違いでもよろしい。ただいまも申しあげましたように、そのへんのことはちゃあんと図星《ずぼし》。いや、ちゃんと呑みこんでおります。あなたが土井さまのお家老だなんてことは、手前はなにも知らない。いわんや、岩田というのは偽名で、実は石口十兵衛といわれるなんてことも、まるっきり知っちゃあいない」
「お、どうして、それを!」

   すさきの浜

 顎十郎は、エヘラエヘラ笑って、
「どうしてとは、水くさい。それに、しょうしょう往生ぎわが悪いですな。ここまできわめをつけられると、たいていの人間なら兜をぬぐにきまっているんだが、どうでもシラを切ろうというところには感服いたしました」
 長い顎をツン出して、冷かすように相手の顔を見る。とぼけた面相のせいか、どことなくおかし味があって、こんな毒のあることを言っても、いっこう憎体《にくてい》にならないのが不思議。うつむいて、石仏のように黙念としているのを、しり目にかけながら、
「キザなことを言うようですが、このへんはまだほんの前芸《まえげい》。どうしてもシラを切られるなら、いよいよ本芸《ほんげい》にとりかかる。……あなたが屋敷を出られて、ここへ来られるまで、いったい、どんなことをなさったか、いわゆる、掌《たなごころ》をさすように解きあかしてお目にかけましょう」
 オホンと乙な咳ばらいをして、
「あなたが芝田村町の上屋敷《かみやしき》を出られたのが、けさの五つ半。屋敷の乗物には乗らず、すぐ二丁目の辻にあんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]の辻駕籠があるのにそれもさけ、わざわざ流しの汚ない四つ手が通るのを待って、それに乗っていったん日本橋まで行き、本石町《ほんこくちょう》の土佐屋で鰹節《かつおぶし》の切手を買い、それからこの本郷真砂町までやって来た。……なぜそんな手間のかかることをなすったかと言えば、屋敷のも
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