顎十郎捕物帳
野伏大名
久生十蘭

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)名札《なふだ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)山と十と|ゝ《ちょん》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1−13−24]
−−

   客の名札《なふだ》

 勝色定紋《かちいろじょうもん》つきの羽二重の小袖に、茶棒縞の仙台平《せんだいひら》の袴を折目高につけ、金無垢の縁頭《ふちがしら》に秋草を毛彫りした見事な脇差を手挾《たばさ》んでいる。どう安くふんでも、大身の家老かお側役といったところ。
 五十五六の篤実な顔立ち。なにか心配ごとがあると見えて白い鬢のあたりをそそけさせ、いやな色に顔を沈ませている。重厚に、膝に手をおいて、
「実は……」
 と、口をきると、深く面をうつむけ、
「なんとも、たいへん非常なことで、なにから申しあげてよろしいやら……」
 肩で大息をつきながら、また、がっくりと首をたれてしまう。なんともどうも、はかばかしくない。むきあって坐っているのが、北町奉行所のけちな帳面繰り。例の、顎十郎こと、仙波阿古十郎。
 一枚看板の黒羽二重の古袷の裾前から、ニュッと膝小僧をのぞかせ、長生《ながなり》の冬瓜《とうがん》のようなボッテリとした馬鹿べらぼうな大きな顎のさきを撫でながら、ははあ、とかなんとか、のんびりと合槌をうっている。
 気の長いことにかけたら、誰にもひけはとらない。まして、顎十郎を動じさせるものなどは、なにひとつこの世に存在しない。相手の溜息も沈んだ顔色も、てんで目に入らないように、天井を眺めながら、茫々乎《ぼうぼうこ》としてひかえている。相手がきりだすまで、十年でも二十年でもゆっくり待つ気と見える。
 客は、沈思逡巡《ちんししゅんじゅん》、思いきり悪くしぶっていたが、いよいよ、のっぴきならなくなったのか、あらためて慇懃に一礼すると、
「今日、突然に推参いたしましたのは、実は折入ってお願い申しあげたい儀がございまして……」
 顎十郎は、ほほう、と曖昧な音響を発してから、
「それは、いったい、どのようなことで……。と言ったって、別にお急かせ申すわけではありません。次第によっては、明日、明後
次へ
全17ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング