た。咄嗟に、顎十郎の右手が動いて、チャリンと鍔鳴りがしたと思うと、
「エイッ」
 鞭をふるほどに、空気が動いて、また鍔鳴りの音。それでおしまい。ふたりの眼には、顎十郎の右手が、チラと動いたのが見えたばかり。そのほかには、いっこう、なんの変てつもない。
 藤波も千太も、顎十郎の凄い手練は、じゅうぶん知っている。
 いつか氷川さまの境内で、ドキッとするような目にあっている。が、いっぽう、大した落着きかたで、めったにひとを斬るほど血気にはやらないことも知っている。また例のおどしだと思ったものだから、負けん気の千太、ふふんと鼻で笑って、なにをしゃらくせえ、と言うつもりなのが、ただ、
「ウワ、ウワ」
 としか言えない。と見ているうちに、唇のはしから、紅い棒でもたらしたように、血が顎のほうへ筋をひく。
 いつ、どうして斬ったのか、唇にも歯にもふれず、左頬の内がわから、斜めうえに口蓋《こうがい》のほうへ、浅く斬れている。切尖《きっさき》がふれたわけではない。一種の気あい突き。抜刀一伝《ばっとういちでん》流、丸目主水正《まるめもんどのしょう》の独悟剣《どくごけん》、刀影《とうえい》三寸動いて肉を斬るというやつ。
 顎十郎は、泰然《たいぜん》として懐手。長い顎をしゃくるようにしながら、
「むかし、俺が甲府勤番にいたとき、俺の前で、うっかり顎を撫でたばっかりに、ふたりまで命を落したやつがいる。いつもおどしだと思っちゃあいけない。……が、そんなこたア、まあどうでもいい。藤波さん、さっきの話のつづきをしようじゃあないか」
 といって、言葉の調子をかえて、
「手前はずいぶんお節介だが、それはそれとして、手を引けの、引っこめのと、きいたふうなことを言ったことは、今までただの一度もない。それを、こういうからには、よくよくわけのあることだと思ってください。……あなたはなにもご存じないが、真実のところ、この仕事ではたしかにあなたの分《ぶ》が悪い。はっきりいうとあなたは飛んでもない奴の味方をしているんです。といったばかりでは、おわかりないでしょうが、あなただって馬鹿じゃあない。ことの起りは、お家騒動にからまっているということは、あなたも御承知のはず。……夫婦喧嘩は犬も喰わないというが、お家騒動となると、こいつアいっそう手がつけられない。どっちの味方をしたって、どっちみち、良くはいわれない。うっかりする
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