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「……ただいまも、申しあげたように、もとは、中国でも名のある家柄。馬まわりにて五百石をたまわり、なに不自由なく暮したこの身が、ふとしたことで扶持《ふち》に離れ、それ以来ながらくの浪々。……せがれの伝四郎ことは、かく申すは憚《はばか》りながら、若年のころより弓術に秀で、なかんずく、大和《やまと》流の笠懸蟇目《かさがけひきめ》、伴《ばん》流の※[#「知」の「口」に代えて「舟」、第4水準2−82−23]《くろろ》ともうす水矢《みずや》をよくいたしますなれど、うらぶれはてたる末なれば、これを世にだすよすがもなく、ついこのさきの小村井《おむらい》のはずれに住みついてしがない暮しをいたしておりましたるうち、嫁はなれぬ手仕事に精魂をつかいはたし、昨年の秋、六つをかしらに四人の子を残して死亡《みまか》り、うってくわえて妻は喘息、それがしは疝痛《せんつう》。ふたり枕をならべてどっと病みふす酸苦《さんく》。伜のひとつ手ではとうてい七人の口をすごしかねる。日々のたつきも立ちませぬところから、さまざま奔走のすえ、ようやくありついたお飼場下飼人の役。一家七人が糊ほどのものを口に入れることが出来るようにはなり
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