うはもう葛飾《かつしか》で、ゆるい起伏の上に、四ツ木、立石《たていし》、小菅などの村々が指呼《しこ》される。
ようやく東が白んだばかりで、低い藁屋から寒そうな朝餐《あさげ》の煙が二すじ三すじ。
欠けこんで、すこし淀みになった川岸の枯蘆の中にしゃがんで、釣糸をたれている三十三四の武士くずれ。馬鹿げた長い顎をつンのばして、うっそりと浮木《うき》を眺めている。垢染んだ黒羽二重の袷に冷めし草履。釣をするなんて恰好じゃない。追い立てを喰った七ツさがりの浦島が、いまこの岸にうちあげられたといった体。
もとは、甲府勤番の伝馬役。そいつを半年たらずで見ン事しくじり、与力の叔父の手びきでやっと北町奉行所の下ッぱに喰いついているケチな帳面繰り。
藤波友衛が、必死の覚悟で房州までさがしに行った、これが当の顎十郎、ひとの気も知らないで、こんなところで、薄ぼんやりと鮒を釣っている。
もっとも、顎十郎ひとりじゃない。
そのかたわらに見るから憐《あわ》れをもよおすような、病みやつれた六十ばかりの老爺《おやじ》、下草にべったりと両手をつき、水洟《みずばな》をすすりながら、なにかクドクドとくり言をのべている
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