いておりました。……そんなんじゃねえ。物ごころのついたときから番所の垢を舐め、寝言にも、捕ッた捕ッたという肚《はら》っからの控同心。つれあいも子供も御用の邪魔とばかりに、この年になってまだひとり身。精も根《こん》も吟味の練磨《れんま》に打ちこんで、こうも身を痩せさせているのは、しゃれや冗談でやっているのではありません。多寡が死《おっこ》ちた鶴一羽。ひと目、創をあらためて、いわく因縁《いんねん》故事来歴《こじらいれき》、死んだものか殺されたものか、突き創なら獲物はなに。どういうやつが、どんなぐあいにどういうわけあいでやったものか、その場で即答できねえようでは、お上の御用はつとまらない。自分でいうのもおかしなものですが、江戸一の、日本無双のといわれる看板も嘘になる。それで、御無用と申しあげたのでした」
切って放したように言うと、驕慢な眼つきで甲斐守の顔を見かえした。
甲斐守は、寛容な面もちで、人もなげな藤波の話をききすましていたが、この時、言いようのない温和な笑顔をうかべて、
「上司を蔑《なみ》するごとき言葉の数かず、役儀熱心のゆえと解してそれは忘れてとらすが、……では藤波、はばかりな
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