います、誠意を披瀝《ひれき》し、一日も早くもどってまいりますから、なにとぞ、不憫《ふびん》とおぼしめして……。いかにもあわれな話ですから、あとのことはたしかに引きうけたからと申しますと、みすぼらしいほど礼をのべ、家ぬし同道で自身番へ行きました」
 顎十郎は首をふって、
「ああ、そいつは、いかんな」
 隠居はうなずいて、
「……いけないというのには、こういうことがあります。……氷を貰いそこねてクヮッと逆上し、氷見役人の前で、どうでもくれぬというなら、これからお氷の駕籠を追いかけて、かならず奪って見せるからと、丼をたたきつけ、えらい形相でその場から駈けだした……」
「いやはや」
「……じつのところは、どうでもとる気で水道橋へんまで追いかけたのだそうです。……しかし、かんがえて見れば、お献上の品に手をかければ、軽くて打首《うちくび》、重けりゃ獄門。……そうなりゃ、かえって伜に憂目《うきめ》を見させるわけ。……ああ、やめにしようと、トボトボと引きかえした。……ところがもうひとついけないことがある。……いまも話していらっしゃいましたが、源右衛門のその日の着つけが、古帷子に塗鞘の二本ざし。……一ツ橋御門うちから飛びだした氷盗びととそっくりそのまま……」
 顎十郎も、思わず歎息して、
「……うむ、着つけがおんなじで、お雪をつかってしまったんじゃ、あの藤波でなくとも、手前の知らぬことではすまさせない。……ちょっと、抜きさしなりませんな」
 隠居はうなずいて、
「しかし、それにしても、源右衛門さんが嘘をいっているとは思われない。こんなあたしなどが力んで見たところが、なんのたそくにもなりますまいが、せめて頼まれがいに、夜っぴて伜の看護をし、いまさっき裏の糊売ばばにかわってもらい、ひと風呂あびて、これから家へ帰ってふた刻ばかり眠るつもり……」
 と言って、あらためて膝を進め、
「……うかがうところじゃ、あなたは北番所でお役につき、また、さまざま捕物で功名をなすった方なのだそうで、これも、なにかの縁《えん》。もし、源右衛門さんがしんじつ無実なのなら、なんとかしてお助けくださるわけにはまいりますまいか。……さきほど家主がきての話には、きのうまではどう責められても自分のしわざではないと言いはっていたのに、どうしたものか、急にきょうになって、いかにも自分のしたことに相違ない、たしかに、手前が盗みましたと手の裏をかえすような申立てをしているそうで。……ご承知か知りませんが、源右衛門というひとは肥前|彼杵《ぞのき》で二万八千石、大村丹後守《おおむらたんごのかみ》の御指南番《ごしなんばん》で板倉流《いたくらりゅう》の居合の名人。……たとえ海老《えび》責めされればとて、そんなことぐらいで追いおとされるような人柄じゃない。……このへんに、なにかアヤがあるのだと思いますが……」
 顎十郎は、腕を組んでうつむいていたが、急に顔をあげて、
「たしかにあかしを立てるとはお引きうけできませんが、おなじ長屋の住人が、そういう羽目になっているというのを、だまって見すごしてもいられない。……ようございます、なんとか、ひとつ、やって見ましょう」

   韋駄天《いだてん》

 手拭いを肩にかけ、寅吉とつれだって有馬の湯を出る。無駄ッ話をしながら本郷三丁目を左へ曲って加賀さまの赤門。
 役割部屋へ入って行くと、みな懐《なつか》しがって、寝ころんでいたやつまで、はね起きて来て、右左から、先生、先生、と取りつく。
 顎十郎はあがり框に近いところへあぐらをかいて陸尺がくんでだす茶をのんびりと啜りながら、ぐるりとまわりを取りまいているつまらぬ顔を見まわし、
「こんどは、なにか、妙な騒ぎがあったそうだの」
 部屋頭が、割膝《わりひざ》でそそり出てきて、
「いや、どうも、馬鹿な騒ぎで……。為と寅のおかげであっしら一同えらいお叱りで。……これがほんとうのそば杖……。いってえ、こいつらは間ぬけなんで、駕籠に押しあてられたぐれえでひっくり返るなんてえのはざまのねえ話。……恥ずかしくてなりません」
「まあ、そう言ったものでもない。……ものには、はずみというものがある。畳の上でころんでも、間が悪けりゃ、足をくじく。……いま、有馬の湯できいたばかりなんだが、氷を盗んだとか盗まないとかいう浪人者は、じつは、おなじ割長屋にすんでいる男での……」
 ……家には、ことし十歳になる伜が時疫で熱をだして寝たっきりになっていることから、青地が氷をもらいそこねて逆上し、つまらないことを口走ったてんまつを話してきかせると、部屋じゅうは、急に湿りかえり、なかには鼻汁《はな》をすするやつまでいる。
 部屋頭は、手拭いで鼻の頭をこすりながら、
「そんな経緯《いきさつ》は知らねえもんですから、腹立ちまぎれにドジだの腰ぬけだのと言いましたが、そういうわけなら、そんなひでえことを言うんじゃなかった」
「聞く通り、いかにもあわれな話だでの、なんとかして助けてやりたいと思っているんだが……」
「へい、へい」
「それについて、どうでも手を借りなけりゃならねえことがあるのだが、どうだ、貸してくれるか」
 部屋頭は、臀《いしき》を浮かせて、
「貸すも貸さねえもありゃしません。……陸尺といや駕籠の虫、見かけはけちな野郎だが、水道の水を飲んだおかげで気が強い。弱い者なら腰をおし、強いやつなら向うっつら。韋駄天が革羽織《かわばおり》で鬼鹿毛《おにかげ》にのってこようがビクともするんじゃありません。……藤波だか蛆《うじ》波だか知らねえが、へたに青地を追いおとそうというなら、江戸の役割三百五十六部屋、これにガエンと無宿《むしゅく》を総出しにし、南の番所を焼打にかけてしまう」
 顎十郎は、長い顎のさきを撫でながら、
「まあまあ、そう意気ごまんでもいい。……おれが頼みたいというのは、そんな大したことじゃない。すまないが、為と寅に駕籠を舁《か》かせて、一ツ橋御門まで行ってもらいたいんだ」
 部屋頭は、怪訝《けげん》な顔で、
「へい、為と寅に駕籠を……。それで、どうなさろうというんで」
「……おととい、氷をのせて行ったときと同じように、氷室から一ツ橋まできっちり四十ミニュートで行きつくように歩いてもらいたい」
「四十ミニュートで……。ですから、どういう……」
 顎十郎はトホンとした顔で、
「……氷献上の駕籠が氷室を出てから、どう氷見役人が小手まわしがきいても、それだけの氷を分けおわるには、すくなくとも四半刻(三十分)はかかる。……駕籠が氷室を出てから四十ミニュートで一ツ橋につくとして、ものの四半刻も遅れてから追いかけて果して駕籠に追いつけるものかどうか……」
 部屋頭は膝をうって、
「なるほど、わかりました。……駕籠を舁きだしておいて、四半刻ほどたってから追いかけ、ほんとうに追いつけるものかどうか試してみようとおっしゃる……」
「……まず、その辺のところだ。……どうでも追いつけないなら、こりゃ、青地のやったことじゃない。……追いつけるか追いつけないか、これが、青地が罪になるか罪にならないかの境いだ」
 と言って、言葉を切り、
「すまないが、だれか氷見役人のところへ行って、だいたい、なん刻ごろにお振舞の氷がおしまいになったかたずねて来てくれ。……おれは、これから金助町の叔父のところへ行って袂時計を借りだして来るから。……もどって来たら、すぐ吊りだせるように、氷室のそばへ駕籠を持って行っておいてくれ」
「へい、ようございます。……おい、為、寅、駕籠部屋から駕籠をひきだして、お氷の箱ぐらい重味《おもみ》を乗せておけ」
「合ッ点」
 つい、眼と鼻の金助町。
 叔父から袂時計を借りだして氷室のそばまで行くと、部屋じゅう総出になって顎十郎を待っている。
「これは、えらい人数だ」
「どうせ、尻おしついでに、みんなで威勢よく押しだそうというんで……」
 顎十郎は手をふって、
「いけねえ、いけねえ、そんなことをしたら目立ってしょうがない。……為と寅、部屋頭、この三人だけでたくさんだ。……ときに、氷見役人はなんと言った、なん刻に氷振舞がおわったと言った」
 敏捷《はしっこ》そうなのが進みでて、
「……氷室をしまって詰所へひきあげたら、ちょうどお時計が十字半を打ったと申しておりました」
「十字半……よし、わかった」
 袂時計を出して見ながら、
「この袂時計で、いま、ちょうど三字五分前。……いいか、キッチリ三字になったら駕籠を吊りだしてくれ。おれは三十分おくれてここから駈けだすから……」
「よろしゅうございます」
「一分ちがっても青地の生死のわかれ目。しっかりやってくれ」
 と言って、部屋頭に、
「お前に、この袂時計をあずけておくから、キッチリ四十ミニュートで一ツ橋にかかるように頼むぞ」
「合点でございます」
「こう見えても、駈けるほうじゃめったに人にはひけは取らねえ。……いわんや、喰うや喰わずの青地の駈けるのとはわけがちがう」
 そう言っているうちに、三字。
 それ舁きだせというので、為と寅がグイと腰をあげる。部屋頭がつきそって、
「じゃ、まいります」
「さあ、行ってくれ」
 みなががやがや言いながら、正門のほうへ送って行く。
 顎十郎は、氷室の腰掛へかけて時間のくるのを待っていると、そのうちにお時計のあるほうからドーンと時刻《とき》の太鼓。
 ちょうど、三字半。
 裾をジンジンばしょりにし、草履をぬいで跣足になると、
「さあ、行くぞ!」
 いきなり闇雲に駈けだす。
 空地をまわってお長屋わき、正門から本郷の通りへ飛びだすと、本郷一丁目を右へ壱岐殿坂。
 水道橋をわたって水野の大屋敷を左に見、榊原式部《さかきばらしきぶ》のかどから四番原をななめに突っきって三番原。大汗になって一ツ橋づめまで飛んでくると、橋のたもとへ駕籠をおろして寅と為と部屋頭の三人が待っている。
 顎十郎は大息をつきながら、
「ど、どうだった……ここで何分ぐらい待った」
 部屋頭は首を振って、
「とても、いけません。……ここへ駕籠をおろしたのはちょうど三字と四十ミニュート。……いまがちょうど三字五十五ミニュート。あなたは十五ミニュートも遅れています」
 顎十郎は汗を拭いながら、
「口から臓腑《ぞうふ》が飛びだすほど駈けてきたんだが、十五ミニュートとは、だいぶちがう。……だが、念には念を入れ、もうひとかえりやって見よう」
 駕龍を吊って加賀の屋敷までひきかえし、またはじめからやり直す。
 なんとも顎の長い異様なのが、ひと刻もおかずにまたぞろ本郷の通りを大駈けに駈けて行くもんだから、町並では、みな店さきへ飛びだして、ワイワイいいながら見おくっている。
 今度は十分早めに追いかけたが、それでも、やはりいけない。顎十郎が駈けつける五分前に、駕籠は、ちゃんと橋詰へとどいている。

   後口

 小伝馬町《こてんまちょう》の牢屋敷。
 三千五百坪の地内に揚座敷《あがりざしき》、揚屋《あがりや》、大牢《おおろう》、二間半《にけんはん》(無宿牢)、百姓牢、女牢、と棟《むね》をわける。
 お目見《めみえ》以上、五百石以下の未決囚は揚座敷へ。お目見以下、御家人、僧侶、山伏《やまぶし》、医者、浪人者は、ひと格さがった揚屋へ入れられる。
 揚座敷のほうは、いわゆる独房で、縁付《へりつき》畳を敷き、日光膳《にっこうぜん》、椀、給仕盆などが備えつけてあり、ほかに、湯殿《ゆどの》と雪隠《せっちん》がついている。
 揚屋のほうは、大牢や無宿牢のような雑居房ではなく、これも独房だが格式はぐっとさがって畳は坊主畳になり、揚座敷のように食事に給仕人がつかないから、したがって給仕盆などの備えつけはなく、雪隠も湯殿も入混《いれご》みになる。
 四畳に足りない六・七という妙な寸法で、いっぽうは高窓。いっぽうは牢格子。片側廊下で、中格子のわきに鍵役、改役当番の控所がある。
 その一間。
 この二日のうちに、いよいよもって憔悴《しょうすい》した源右衛門とむかいあって坐っているのが、仙波阿古十郎。
 かくべつ陽気にかまえるつもりはないのだろうが、顔の
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