みにした」
寅吉は、並んでかかり湯をつかいながら、
「先生は、相変らず、のんびりしていらっしゃる。……御用がなかったら、あっしどもの部屋へ遊びにおいでなさいませんか。この節は、ちっとも顔をお見せにならねえので、いつも、みなとお噂をしておりやす」
「いいな、ひと風呂あびたら、いっしょに行って、久し振りにみなと馬鹿ッぱなしでもするか」
寅吉はよろこんで、
「じゃ、背中でもお流ししましょう」
と言って、膝をうち、
「……それはそうと、あけて前の朔日、ひょんな騒ぎがあったことをご存じですか」
「いや、聞いていない」
「じゃ、お聞かせしましょうか」
「聞かせてくれるのはありがたいが、暑苦しい話なら願いさげだ」
「暑苦しいどころか、とほうもなく涼しい話なんで……。なんと言っても、お氷の件なんだから」
「お氷が、どうした」
「世の中には、ずいぶん変ったこともあるもんですが、こんどなんかも、その、なかんずく。……お屋敷からあがった献上のお氷を桐箱ぐるみそっくり持って行ったやつがいるんです」
「ほほう、それは、いかにも涼しい話だの」
寅吉は乗りだして、
「なんと申しやしてもね、古くからの重い慣例。……あまり物欲しそうにはしねえ公方《くぼう》さまが、これだけはお待ちかねで、前の月はなから、もう、あと何日で加賀の氷がくると待ちかねておいでになるというその氷。……そいつを横あいから掻《か》ッ攫《さら》ったやつがある。……大袈裟にいうわけじゃねえが、これは天下の一大事。……殿さまの恐縮もさることながら、駕籠について行った用人、氷見役一同、ことによったら腹切りもの。……相手が氷でも、これじゃ、すこし、涼しすぎましょう」
「この節は、いろいろと変った盗っとが出る。……それで、どんなやつの仕業だったんだろう」
寅吉は、顎十郎の肩につかまって背中を流しながら、
「……話はあとさきになりますが、じつは、お雪献上の駕籠をかついで行ったのは、あっしと為のふたりなんでね、ですから……」
顎十郎は、肩越しに寅のほうへ振りかえって、
「じゃ、お前が、お氷がさらわれる現場を見たわけだな」
寅吉は、照れくさそうに頭へ手をやって、
「見たか、とたずねられりゃ、見たと返事をするよりしょうがねえわけなんですが、それが、どうもなんとも、ざまのねえ話なんで……」
「どうした?」
「いま、くわしくお話します……。たぶん、ご存じじゃなかろうと思いますが、なにしろ相手は溶けりゃ形なしになる厄介なしろもの。……毎年の例で、こいつが西の丸の御車寄へかっきり四ツ半(午前十一時)につくのがきまりなんで。……と、言いますのは、お上《かみ》は九ツ(正午)の昼御飯で、お膳をひくと、すぐその後でお氷をおあがりになるんで、この時刻はどんなことがあっても外されない。……ですから、お氷が四ツ半きっちりに御車寄へつくにはなん刻《どき》に氷室を出して、なん刻に駕籠へのせ、門を出るのがなん刻、壱岐殿坂をくだりきるのがなん刻と、お送り役と氷見役立ちあいで袂時計《たもとどけい》を持ってお駕籠の早さを割りつけ、大袈裟にいや、氷室から西の丸の御車寄まで何千何百歩と、きっちりときまっているくらいなものなんです」
「いやはや、たいへんな威勢のもんだな」
「まったく……軍談よみの『戦記』を聞くと、武者押しというのは、一鼓三足《いっこさんそく》といって、歩度《ほど》の間尺《ましゃく》がきまっているもんだそうですが、お氷献上の駕籠ゆきは、添役《そえやく》が袂時計を見ながら、ホイと掛声をかけると、サッサ、サッサと四歩でる。……去年、壱岐殿坂のおり口で二百歩目でにらんだ傍示杭《ぼうじぐい》は、今年もおなじ二百歩目でにらみつけようというわけなんで……。あっしと為が、毎年、お氷の駕籠をつって行くんですが、この駕籠かきだけは二人でなくちゃ勤まらねえ。……まあ、そういったようなものなんです」
「おもしろいの」
「……ところで、その日、お氷が氷室を出たのは、お添役の袂時計で十|字《じ》五|分《ふん》……御正門を出たのが十字十分……壱岐殿坂を下りきって二十五分……水道橋をわたりきって三十分……神保町かどが三十五分……三番原口から一ツ橋かかりが四十五分。ところで、ここで、ひょんなことが起きちまった……」
「どうした」
「……いま、一ツ橋御門へ入ろうとすると、いきなり門内からむさんに飛びだして来たやつがあって、闇雲《やみくも》に駕籠の曳扉《ひきど》のあたりにえらい勢いで体あたりをくれた……」
「ほほう」
「……人間ひとりが乗っているなら、ひとの重さがありますから体あたりぐらいでひっくり返るなんてえこたあねえんですが、なにしろ、中身はごく軽いんだから駕籠は宙に浮いている。……そこへ、いきなり、えらい勢いで突っかけられたんで、あっしと為は、はずみを喰って棒ばなで薙《な》がれ、ものの二三間もひょろついて行って駕籠をほうりだして、もろにあおのけにひっくり返っちゃった……」
「さまはねえの」
「いや、どうも……。どういうはずみか知らないが、ひっくり返ったところへ、まるでご注文みたいに駕籠がおっかぶさって来て、あっしは眉間を、為は鼻づらを火の出るほど棒ばなでどやしつけられ、まったくの、かんかんのう、きゅうれんす。……痛えの候《そうろう》の、キュッといったきり息もつかれねえ。……そうしてるうちに、そいつがたおれた駕籠の曳扉に手をかけると、いきなりお氷の桐箱をひきずり出して小脇へかかえ、横ッ飛びにパッと御門内へ飛びこんじまった……」
「なるほど」
「……話しゃあ長いが、体あたりをくれておいて、お雪の箱をひっかかえの、門の中へ飛びこむまでは、ほんのアッという間。……これは、と言ったときには、もう影もかたちも見えない。……添役人は十人もくっついているんですが、どれもこれも書役《かきやく》あがりの尻腰《しっこし》なし。……おや、たいへんとマゴマゴするばかり。……ようやくわれに返って門内へなだれこんだが、もうあとの祭。……盗っとは松平越前の屋敷の塀にそって大下馬《おおげば》のほうへ行き、御破損小屋《ごはそんごや》から呉服橋のほうへ抜けて行ったんだろうと思いますが、たぶんそうだろうと思うだけのことで、みなで追いかけたときには、うしろ姿さえ見かけない始末。……今さらながら青くなって取りあえずお側役人まで訴えてシオシオと屋敷へひきあげて来ましたが、殿さまはもってのほかのお怒《いか》り。すぐ伴《とも》をそろえて西の丸へお詫びにあがるという騒ぎ。……添役、氷見役は青菜《あおな》に塩、どうでもこりゃ、お叱りはまぬかれない」
顎十郎は、のんびりと顔を振りあげ、
「しかし、それだと言って、盗っとの顔ぐらいは見たろうから、こりゃ、まあ、すぐ知れる」
寅吉は首をふって、
「……ところが、そうじゃねえんで。……顔なんざ、だれも見ちゃいねえ」
「ほほう、それは、また、なぜ」
「なぜにもなにも、袖をひきちぎって、すっかり顔をつつんでおりまして、菊石《あばた》やら、ひょっとこやら、てんで知れない」
「ふむ、……でも服装《なり》ぐらいは見たろう」
「……ですから、見たかと言われりゃ、見たという。……古帷子をきて、二本さした浪人ふう……と、まあ、言うんですが、これも、チラと見かけたばかり。……あんまり、きっぱりしたことも言われねえ。……まったく、埓《らち》のねえ話で……」
「……それで、お雪盗びとはわからずじまい……」
「いや、そうじゃねえんで……。青……青……、名前は忘れましたが、なんとかいう浪人者が、南番所の藤波の手でつかまって、これがその、だいたい、そいつだろうということにきまりかけているんだそうで、へえ」
「藤波が……。それは、素早いの」
ふたりが話あっていると、眠っていると思っていた謡の隠居がモゾモゾと起きだして、
「……ええ、そのことなんでございますが……」
顎十郎は振りむいて、
「これは、ご隠居さん、眠っていらっしゃるのだと思って声もかけませんでしたが……」
六十ばかりの品のいい老人で、ひとつまみほどの白髪の髷を頭にのせている。膝行《にじ》るようにして寄って来て、
「眠るどころのだんじゃございません、さきほどから、お話をうかがっておりました」
と言って、眼をしょぼつかせ、
「……お話のようすでは、まだご存じなかったようですが、南番所へ引きあげられた浪人者というのは、あなたもご存じでしょう、いつも肩だすきで傘張に精だしている、すぐ裏の浪人者……青地源右衛門《あおちげんえもん》……」
「知らないわけはない……糊《のり》売ばばあの奥どなりの、……源吾とかいう子供とふたり暮しの……」
「へえ、そうでございます」
「話はしたことはありませんが、手前の二階の窓からちょうど眼の下で、なにしろ、ひと間きりの家だから、いやでも胴中まで見とおし。……四五日前に、子供が熱を出したとかで、だいぶと心配らしく見えましたが……。あれが、お雪盗びと……」
「盗んだのか、盗まぬのか、それは、あたしどもには、きっぱりしたことは申されませんですが、ありようは……、と言っても、源右衛門さんの述懐《じっかい》ですが、自分が盗んだのではなく、だれか知らないがお氷の入った桐箱をあがり口へおいて行った者があると、そう言うんでございます」
「はて、……お氷の箱があがり口に……」
「……加賀さまへお雪をもらいに行き、貰いそこねてぼんやり帰ってくると、あがり口に見なれない桐箱がおいてあるので、なんだろうと思って蓋をはらって見ますと、それが、胸も焦げるほどに欲しいお氷……」
「ほほう」
「……と申しますのは、ご承知のように、伜がずっとひどい大熱で、囈言のあいだにも、雪をくれ、雪をくれとせがみます。……親の身としては、息のあるうちにせめてひと口なりとすすらせてやりたい。間もなくお雪があがるということで、丼をひっつかんで駈けつけたが、ちょっと遅かったばっかりに貰いそこね、ガッカリと気落《きおち》して、魂がぬけたようにトボトボと帰って来た、……その鼻さきへ桐箱に入ったお氷。……当座は、夢を見てるんだと思ったそうです。……あまり欲しい欲しいが凝りかたまって、現《うつつ》にこんなものを見るのだと思った……」
「そりゃ、そうありましょう」
「……さわって見ると、これが冷たい。……たしかに、夢じゃない……すぐ届けりゃよかったんですが……」
「子のかわいさにひかされて、お雪に手をつけた」
「その通り……。いくら逆上したといっても、そこはお侍。それをしたら大変なことになると、いったんは、すぐ訴えでようと思ったそうですが、眼の前で、せがれが熱に苦しんで、虫のような細い声で、お雪を、お雪を、と囈言をいっている……」
「ふむ」
「……ほうっておけば、どうせ、溶けてなくなるもの、ひとかけらぐらはいいだろう。……さあ、雪だぞ、と言って、子供の口にさしつけると、ひと心地のないながらに、ああ冷たい、うまいねえ、と子供は夢中になって喜びます。……なにしろひどい熱ですから、ものの五分もたたぬうちに、また喉をかわかして、雪をおくれという……。こうなるとたまらない、堰《せき》が切れたようになって、もうひとかけらぐらい、いいだろう……もうひと口はいいだろう。……いいだろう、いいだろう、で、すすらせるほうと溶けるほうで、見る見る雪がへってゆく。こうなればもう破れかぶれ、いっそのこと、この雪で額や胸を冷やしてやったら、どんなに子供が楽になるだろう……。手拭いに押しつつんで胸と頭へあててやると、ああ、涼しいね、と子供はよろこぶ。……あッと気がついたときには、もう、ひとかけらの氷もない」
顎十郎はいつになく、しおっとして、
「いやどうも、気の毒な話ですな。……それで、どうしました」
「しまったと思ったが、もう遅い。……桐箱をかかえてボンヤリあたしのところへやって来て、ありようをくわしく話し、これから真砂町《まさごちょう》の自身番へ名のって出るつもりだから、どうか伜のことはおたのみ申す。……誓って、手前が盗ったのではありませんから、かならず疑いはとけると思
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