こしらえがなんとなくのんびりと出来ているので、こういう陰気な場所がらにはいかにも不釣りあい。
ちょうど話がとぎれたところと見え、青地は膝に手をついてうつむき、顎十郎のほうは、例によって長い顎の先をつまみながら、トホンと天井を見あげていたが、鼻の先にとまりかけた蠅を手ではらうといつもの不得要領な調子で、
「いやどうも、それは、それは……」
と、わからぬことを言っておいて、あらためて青地の顔を眺め、
「とかく、番所の人間というものは、わかりきったことをしちくどく念を入れるが、これが、つまり役儀がら。……馬鹿なことをうかがうようですが、加賀の屋敷を出て、どういう道すじで一ツ橋へおいでなすった」
「どの道と申して、道はひとすじ。……壱岐殿坂から水道橋。大屋敷を左に見て、榊原式部のかどから四番原、三番原。……それから一ツ橋……」
「まず、そのへんが道順ですな。……あなたは、駕籠を一ツ橋門内で待伏せなすっていらしったそうだが、どのへんで氷の駕龍を追いぬかれましたか」
青地はチラと眼をあげて、
「はて、どのへん、と申して……」
「お忘れですか」
「いや、思い出しました。……駕籠を追いぬいたのは、ちょうど、大屋敷のあたり……」
「……あたり、と言いますと……」
「……ちょうど、大屋敷の角で……」
「ははあ、そこで追いぬかれた。……なぜ、そこでおやりにならなかった」
「……なにか御祝儀でもありましたろう、おりあしく、榊原のお徒士《かち》衆が油単《ゆたん》をかけた釣台《つりだい》をかついで門から出てまいりまして……それで……」
「それは、悪い都合。……それにしても、一ツ橋の御門内で待伏せられたのはどういうわけですか。……いったいの空地で、あの三番原なら、門内で待伏せするよりやりやすかったのではなかったかと思いますが」
「いったんは、手前も、そうかんがえましたが、逃げるには便利なようでも、なんといっても四方みとおしの原」
しおっ、と首をたれて、
「……じつは、その日は、二日ほど前から、水のほかなにものも食しておらんような始末。……この弱あしで原のほうへ逃げましたら、すぐ追いつかれる。……ご門内のほうならば、屋敷も建てこんでいることでござるから、そのあいだを縫い歩いたら、なんとか逃げおわせるかと……」
顎十郎は、ほう、とうなずいて、
「二日も、なにもあがらんで、本郷から一ツ橋まで駈けるのは、なかなか大変でしたろう」
「お恥ずかしいことですが、息切れがいたして、今にも眼がくらむかと思うばかり。……どうして追いつきましたやら、不思議なくらいで……」
「それも、子がかわいさの一心。恩愛《おんない》の情というのは、えらい働きをするものですな。……盗りもせぬものを盗ったなどと言われるのも、ふしぎのひとつで……」
青地は、はッと顔をあげ、
「なんと言われる」
顎十郎は笑って、
「あなたも、じょうずに嘘がつけない方だ、そんな頼りないことで、よく藤波がだませましたな」
「これはしたり!」
「などと驚いたような顔が、また嘘」
青地は荒らげた声で、
「嘘とは、そもそもなにをもって。……なんと言われようと手前が盗んだに相違ない」
顎十郎は手でおさえ、
「まあまあ、そんな大きな声をなすってもしょうがない。……それほどに言われるなら申しますが、いま、榊原から釣台が出たとおっしゃったようだが、榊原式部は前の月の中旬《なかごろ》、九段の中坂へお所がえになって、あの屋敷はいま空家になっていることをご存じですか」
「おッ、それは!」
「藤波はうっかり見のがしたろうが、あたしはそんなことじゃだまされない。……いかに江戸が繁昌でも、無人《ぶにん》の空家から祝儀の釣台が出てくることはない。もし、ほんとうにあったら、それは、お化の口」
チョロリと相手の顔を見て、
「……いいですか、あの日、お雪が氷室を出たのは、お添役の時計で十字五分。……一ツ橋へかかったのが十字四十五分。……ところで、あなたが氷室を飛びだしたのは、駕籠が出てから四半刻おくれた十字三十五分。……あなたがどんな韋駄天でも、本郷から一ツ橋までたった十ミニュートで駈けられるわけはない。……えらそうに言うようでお耳ざわりでしょうから、打ちあけて話しますが、じつは昨日、あの日の時刻に駕籠を出し、それから四半刻おくれて死物狂いに追いかけて見ましたが、駕籠が一ツ橋の門内へ入りかけるころには、あたしは、ようやく三崎稲荷《みさきいなり》の近く。……どうでも、十分ばかり遅れるのです。……念を入れて、もう一度やった、が、やっぱりいけない。……それで、今度は、加賀さまの早飛脚《はやびきゃく》で、小田原の吉三《きちさ》というのを頼んで駈けさせた。……一日で江戸と小田原を楽に往復するというえらい早足なんだが、やはり、追いつけない。……だいぶ迫っては行きましたが、駕籠が一ツ橋門内に入りかかるときには、ちょうど四番原の入り口へかかったばかり……」
ふ、ふ、と笑って、
「失礼なことを申すようだが、さっき伺っていると、二日ばかりなにも喰べず水ばかり飲んでいらしたということだが、その足では、まずまずどんなことがあっても駕籠を追いぬくの、先まわりして待伏せるなどということは出来ない。……いかがです」
「………」
「……ねえ、青地さん、あなたの家のあがり口へ氷の箱をおいて行ったのは、だれなんです。たとえ相手は氷でも、献上物へ手をかければ打首、獄門の大罪。……おまけに、時疫で大熱をだして苦しんでいる子息の命にかえてまで庇《かば》おうとなさる以上、あなたが、そのものの名を知らぬというはずはない」
青地は頭をたれ、長いあいだ愁然《しゅうぜん》としていたが、そろそろと顔をあげ、
「恐れ入ったご活眼。……なにもかもつつまず申しあげます。……じつは、手前が盗んだのではありません」
あらためて、畳に手をついて、
「正視《まさめ》に、そのものの姿は見ませぬが、あれを手前の家へ投げこんだものの心あたりはございます。……恥を申さねばなりませんが、手前には、長一郎という長男がございましたが、これがいかにも放蕩無頼《ほうとうぶらい》。いかがわしいものをかたらって町家へ押借《おしかり》強請《ゆすり》に出かけます。……眼にあまりまして、去んぬる年、勘当いたしましたが、いかに無頼でもそこは血の濃さ。……弟、源吾のほしがる雪を盗みとって家さきに投げこんだものと察し、生さき短い手前が、長一郎の罪をせおって打首になれば、いかな無頼なやつも本心に立ちかえるであろうと存じ、それゆえ、お上を欺《あざむ》くようなこんな仕方をいたしました」
顎十郎は、組んでいた腕をといて、
「お話はよくわかりましたが、それは、チト妙ですな」
「はて」
「……古帷子で顔をつつんで一ツ橋の門から駈けだし、お氷の駕籠につきあたって、あわててまた門内に駈けこんだその男は、酒井の大部屋で手遊びをしていた石田清右衛門という御家人《ごけにん》くずれ。……勝負のことで小者の小鬢を斬り、足にまかせて逃げだした鼻さきへ駕籠が来て、ついのはずみに駕籠をひっくり返し、これは、と狼狽《うろた》えて、また部屋へ逃げかえった……氷もなにも盗んじゃいないのです。いわんや、あなたの子息の長一郎さんとやらじゃないんだから、つまらぬ庇いだては、まずまず御無用」
青地は、思わず膝をのりだして、
「そ、それは、事実で……」
「事実もなにも、酒井の部屋には、これが嘘でないという証人が十人、二十人とおります。……もっとも、石田清右衛門のほうは、自分が駕籠をひっくり返したために、こんなえらい騒ぎになっているなんてことは知らない」
顎十郎は、長い顎のさきを撫でながら、うそぶいて、
「……ところで、手前には、だれがお氷の箱をあなたの家へ投げこんだか、だいたいあたりがついている。……が、それは、こっちの話。……ところで、氷の箱ですが、これは盗まれたのではなくて駕籠からころげだし、あのへんの草むらの中へ落ちていた。それを誰かが、なにか金目なものと思いこみ、拾ってかかえて来たが、さて、あけて見たところが、ただの空箱。……なんだ、つまらねえ、で、行きずりに垣根越しにあなたの家のなかへ投げこんだ。……掏摸《すり》などがよくやる手で、盗んだ財布から金だけ抜きとり、財布のほうはところかまわずそのへんの縁の下へ投げこんで行く。そんな例はザラにあるんです。……運わるく投げこまれたのがあなたの家で、それが、あなたの不幸、と言ったようなわけ、……いかがですか、たしかにおわかりになりましたな」
それから一刻ほど後、顎十郎はブラリと加賀の大部屋へあらわれる。為と寅を空地へ呼びだして、
「……寅に為……よくやったな」
二人は、あっけに取られて、
「よくやった……だしぬけに、なんです」
顎十郎は、へへら笑って、
「駕籠がひっくり返ったはずみに、氷の箱が駕籠から飛びだして、土手下の草の中へころがりこんだ。……青地のせがれが大熱で、たいへんに氷をほしがっていることを知っている。こいつぁ、いい、で、互いに眼顔で知らせ、わッ、あの侍、お氷の箱をかかえて逃げて行きやがる、と騒いだな。氷見役人などはみな頓痴気《とんちき》だから、そりゃ、大変、で追いかける。……どのみち、ふたりに用はない。西の丸そとをさんざ駈けまわらせておいて、ふたりのうちのひとりが氷の箱をかかえ、早駈けして青地の家へ投げこむ……」
キョロリと二人の顔を見て、
「青地が馬鹿正直で、箱をかかえて自身番へ訴えでたには驚いたろう」
為は、息をのんで、
「ど、どうしてそれを……」
「見そこなっちゃいけない、おれの耳はお前たちのとはチト出来がちがうのだ。……氷盗っとが箱をかかえたのを見とどける暇があるのに、衣類のなりがわからないというはずはない。わざと曖昧な申立てをしてるところに、なにかいわくがある。有馬の湯で話をきいたときから、ことによったら、お前たちの仕業だとチャンと睨んでいたんだ」
「先生も、おひとが悪い」
「ひとが悪いのは、そっちのほうだ。……お前たちがチョイチョイ青地の家へくることはおれは知っている。それを、まるで他人のようなことを言うから、これは、こう、と、見こみをつけた」
為と寅はふるえ出して、
「こりゃあ、えれいことになった。……それで、あっしたちのほうはどうなりましょう」
「どうなるものか。……氷は溶けてあとかたなし。水から出て水にかえる。……まず、なにごともなかったことにすればいい」
底本:「久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1−13−24]」三一書房
1970(昭和45)年3月31日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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