て春を過し、六月朔日、土用のさなかに穴をひらき、まわりの雪をのけて桐箱入りの氷を駕籠にのせ、一ツ橋御門から入ってすぐ御車寄《おくるまよせ》まで行く。
 車寄についたお雪の桐箱は、御側用人《おそばようにん》、お坊主附添いでまず老中《ろうじゅう》の用部屋まで運び入れ、用部屋から時計《とけい》の間《ま》坊主《ぼうず》、側用取次と順々に送られ、お待ちかねの将軍が、これを器《うつわ》に盛って、今年の雪は、ことのほか冷たいの、などと御賞美なさる。
 さて、加賀さまのお氷が西の丸へあがったと聞くと、本郷、下谷一帯の町家のものはもちろん、はるばる下町からも、遠近貴賤の別なく容器を持っておあまりの氷をもらいに集ってくる。
 暑いさなか、ようやくお氷は頂戴したが、日本橋まで駕籠を飛ばすうちに丼の雪が溶けて水になる。ずいぶん高価《たか》い水だが、生温《なまぬる》になった水でも、お氷が溶けた水だといえば、ありがたい気がする。
 江戸は、ことに水の悪いところで、町人は夏のあいだに雪や氷を口にするなどということは思いもおよばなかったので、加賀さまのお雪はたいへんに珍重された。
 ……そういうぐあいに、丼や蓋物《ふ
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