塀にそって大下馬《おおげば》のほうへ行き、御破損小屋《ごはそんごや》から呉服橋のほうへ抜けて行ったんだろうと思いますが、たぶんそうだろうと思うだけのことで、みなで追いかけたときには、うしろ姿さえ見かけない始末。……今さらながら青くなって取りあえずお側役人まで訴えてシオシオと屋敷へひきあげて来ましたが、殿さまはもってのほかのお怒《いか》り。すぐ伴《とも》をそろえて西の丸へお詫びにあがるという騒ぎ。……添役、氷見役は青菜《あおな》に塩、どうでもこりゃ、お叱りはまぬかれない」
 顎十郎は、のんびりと顔を振りあげ、
「しかし、それだと言って、盗っとの顔ぐらいは見たろうから、こりゃ、まあ、すぐ知れる」
 寅吉は首をふって、
「……ところが、そうじゃねえんで。……顔なんざ、だれも見ちゃいねえ」
「ほほう、それは、また、なぜ」
「なぜにもなにも、袖をひきちぎって、すっかり顔をつつんでおりまして、菊石《あばた》やら、ひょっとこやら、てんで知れない」
「ふむ、……でも服装《なり》ぐらいは見たろう」
「……ですから、見たかと言われりゃ、見たという。……古帷子をきて、二本さした浪人ふう……と、まあ、言うんで
前へ 次へ
全40ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング