丹後縞のけん凧をあげた。……これが金座から御用金がでる半刻ほど前。……あなたのお見こみでは、立馬左内が、きょう間もなく御用金が金座を出るのを知って、稲荷河岸あたりで待っている一味の石船にそれを合図するため、どこからでも目立つ白地に赤びきの長崎凧を、せがれの芳太郎にあげさせた……。それにちがいはありませんか」
 藤波は冷然たる面もちで、
「いかにもその通り、それが?」
「まあ、平に平に……。それが、その凧をどこかの凧が切って持って行った。……それというのは、たぶん、その凧にくわしい手はずを書いた結び文でもしてあったのだろう……」
「それが、どうした」
「つかぬことを伺うようですが、では、その凧は、たしかに石船の一味の手へ入ったというお見こみなんでしょうな」
「なにをくだらん、……手に入ったればこそ、ああいうことが出来たのだ」
 顎十郎はうなずいて、
「なるほど、理詰ですな」
 と言うと、キョロリと藤波の顔を眺め、
「ときに、藤波さん、もう十一月だというのに、この二三日、どうしてこうポカつくか、ご存じですか?……まるで、春の気候ですな」
 藤波は、いよいよ癇を立て、
「手前は、あなたと時候の挨拶をするために、こんなところまで出かけて来たのじゃねえ。そんなくだらないことなら、手前はもうこのへんで……」
 顎十郎は、大袈裟に引きとめる科《しぐさ》で、
「まあまあ、お待ちなさい。……相変らず、あなたも癇性だ。……お返事がなければ、手前が釈義いたしましょう。……なぜ、こうポカつくかといえば、この二三日、ずっと南よりの東風《こち》が吹いているからなんです。嘘だと思うなら、浅草の測量所へ行って天文方のお日記を見ていらっしゃい。東東微南と書いてあります。というのは、じつは手前が調べて来たのだから、これに間違いはない」
「風は、東からも吹きゃ、西からも吹く。……それが不思議だとでもいわれるのか」
 顎十郎は手で押さえて、
「不思議はないが、曰《いわく》がある。……ねえ、藤波さん、……一昨日の夜の四ツ(十時)頃、ごらんの通り、この厩が燃上った。……大体において、火の気のないところなんで、どうして、こんなところから火が出たかというと、それは、行灯凧が塀越しにむこうからのびてきて、この屋根へ落っこちたからなんで。……それを見ていた馬丁が五人もいるんだから、これには間違いはないんです。……行灯凧の燃えのこりは、のちほどお目にかけますが、ところでね、藤波さん、いったいぜんたい、どの方面から行灯凧をあげればちょうどこの辺へのびて来るでしょう。……いま申したように、この二三日来、ずっと下総東風《しもおさこち》が吹いているんです」
「うむ」
「うむ、というのは、大体お察しになれたというご返事だと思いますが、ここから川をへだてて金座の長屋は、ちょうど真西にあたる」
「…………」
「神田橋の勘定所から、金座へ御用金差しまわしの触役《ふれやく》が来たのはその晩の五ツ(八時)ごろ。……この厩に小火が起きたのは、それから一刻後の四ツごろ。……その行灯凧が、きっと金座であげたのだろうとは言いませんが、稲荷河岸の石船に合図をしようと思うなら、なにも、次の夜あけまで待つ必要はない。この通り、行灯凧というのもあるんだから、やろうと思えば、その夜のうちに合図もできるだろうということなんです。……なるほど、白地に赤二本引きのけん凧も目立つだろうが、なんと言っても、夜あげる行灯凧にはかなわない。……それに、おなじ合図をするなら、すこしでも早くやるほうが万事について都合がいい。それが、人情というものでしょうからね。……それで、あなたは、芳太郎が、行灯凧もあげたということまで突きとめましたか」
 藤波は苦りきって、
「いや、そこまでは、まだ調べがとどいておらん。……行灯凧のためにここに小火があったということは、まだ届けいでがなかったでな」
「そのへんが、お役所の不自由なところ。……手前のほうは、松平の中間部屋に寝ころがっていて、チラとこの話を小耳にはさんだ。……いわば、怪我の功名だったんですが、こういうところから推しますと、芳太郎はどうも罪にはならんようですな、……言うまでもなく、行灯凧は、『陣中|狼火《のろし》の法』のひとつで、凧糸の釣《つり》にむずかしい呼吸のあるもの、また、これをあげるにも相当の技《わざ》があって、八歳や十歳の子供などにあつかえるようなしろものじゃない。……なにしろ、行灯仕立てにして、その中に火のついた蝋燭が一本立っている……火を消さぬように、行灯を焼かぬように、これを高くあげるにはなかなかコツがいる。あげるまでのあいだに、十中の九までは行灯を燃やしてしまうのが普通です」
 藤波は、腕を組んで、眼を伏せて考え沈んでいたが、フイと顔をあげると、
「いちおう理屈は通るようだが、それだと言って、立馬に罪がないとは言いきれない。長崎ふうのけん凧をつくって子供にあたえるくらいなら、そうとう凧に心得のあるやつ。行灯凧だってあげるだろう。……夜のうちに、自分で行灯凧をあげ、朝になって、御用金が金座を出る間ぎわに、間もなくこれから出るぞという合図に、こんどは、せがれに白地に赤二本引きの凧をあげさせた……」
 顎十郎は、首をふって、
「どうもいけませんな。凧をつくる男なら、金座にもうひとり名人がいる。……それは、やはりお金蔵方のひとりで、石井宇蔵《いしいうぞう》という男です。そいつが金座の子供の烏凧をぜんぶ作ってやっている。……これは余談ですが、手前に言わせれば、芳太郎の凧は合図でもなんでもありゃしない、いわんや、結び文などはもってのほか。……あなたは、その凧に結び文をつける約束ができていて、石船のほうでそれを雁木にひっかけて持って行ったのだと言われる。……ところで、そんなことは、まるっきりなかったんです」
 藤波は含み笑いをして、
「ほほう、まるで、見ていたようなことを言う。……そんな大きな口をきくからには、なにか、たしかな証拠でもあるのでしょうな」
「あればこそ、こんなふうにも申しているんです。……その証拠をお目にかけますから、まあ、こちらへいらっしゃい」
 顎十郎は先に立って厩を離れ、矢場の※[#「土へん+朶」、第3水準1−15−42]《あずち》のうしろをまわって塀ぎわのひろい空地に出ると、急に足をとめ、蟠屈《ばんくつ》たる大きな老松《おいまつ》の梢《こずえ》をさしながら藤波のほうへ振りかえり、
「芳太郎の凧が、合図でもなんでもなかったという証拠は、まず、あの通り、……芳太郎の凧は、雁木にからめて奪《と》られたんでもなんでもない。あれ、あの枝にひっからまってブラさがっています」
 指さされたほうを見あげると、いかにも、まだ紙の色もまあたらしい白地に赤二引の丹後縞のけん凧がブラさがって、ブラブラと風に揺れている。
「いかがです。金座の塀の内からは、この松は見えない。……芳太郎のほうは、れいの通り、とんび組がきて引っきって行ったのだろうと思ったのだろうが、じつは、こんな始末だったんです。……あの凧に結び文があったかないか調べるまでもない。……かりに、そうだとすると、芳太郎の凧がこんなところにひっかかっている以上、むこうへ合図が渡らないたはず[#「渡らないたはず」はママ]なのに、ご承知のように、石船はチャンと動き出している。……この理から推して、芳太郎の凧は、合図でもなんでもなかったのだと言ってるんです。……要するに、合図があったのは芳太郎の凧あげ以前のことだったと思うほかはない。……どうです、ご納得がゆきましたか」
 と、小馬鹿にしたように、顎をふって、
「天の理というものは微妙なもので、この二三んち来、風がいつも同じ方向から吹いていたなんてことは、これは、まったく天のなせる業《わざ》。……金座からあげた芳太郎の凧がここに落ちるなら、むこうの厩に落ちた行灯凧も、従って、やはり金座から出たと思えないことはない。これは、あながち、こじつけとも言われますまい」
 急に真顔になって、
「じつは、あの事件があって以来、手前は、一ツ橋そとの二番原へ行って、凧をあげながらいろいろなことを考えておった。……凧あげも存外《ぞんがい》おもしろいものですが、そうしているうちに、チョイとした妙なことに気がついたんです。……さっきも言ったように、これで功名しようの、あなたをへこまそうのというんじゃない、ほんのお道楽。……これから、妙の妙たるゆえんをお目にかけますから、お嫌でなかったら、金座のへんまでお伴したいものですが」
 藤波は、キリッと歯を噛んで眼をそらしていたが、忌々しそうに頷くと、
「よろしい、お伴しよう」
 と、ホロ苦く呟いた。

   烏《からす》と鳶《とんび》

 松平越前の脇門を出ると、顎十郎は、手にからす凧と糸巻を持って、うっそりと常盤橋を渡りかける。渡りきったところが、ちょうど金座の横手。
 塀越しに金座の屋の棟を見ると、れいの通り、地内の空地からあげる烏凧が十二、三も空に浮かびあがっている。
 顎十郎は、薄馬鹿のように空のほうを顎でしゃくりながら、
「……どうです、相変らずやっていますな。……手前は知らなかったが、金座のからす組、小田原町のとんび組といや、下町では有名なもんだそうで、この凧合戦を見にわざわざ山の手からやって来るひともあるくらいだそうです」
 藤波は、気のない調子で、
「ふむ、ふむ」
 顎十郎のほうは、ひどく上機嫌で、ああんと口をあけて、からす凧を眼で追いながら、
「……もう、間もなく、むこうの小田原町のほうから鳶凧がやって来て、ここでひと合戦はじまります。このへんで、ゆっくり見物しますかな。……それにしても、ただぼんやり見ているのも無聊《ぶりょう》。……さいわい手前もからす凧を持って来ましたから、この塀そとで凧あげをしましょう。……どうです、藤波さん、あなたもひとつ。……これが風をはらんで空に舞いあがって行くのを見ていると、なんとなく気宇が濶《ひら》けて愉快なものです」
 藤波は焦《いら》立って、
「あげるなら、あげるがよろしいが、さっきの話のほうはどうなるんです。……なにか、奇妙なものを見せるということだったが……」
 顎十郎はニヤリと笑って、
「ですから、これよりおもむろにご高覧《こうらん》に供《きょう》します。……せいてはことを仕損ずる。……まあまあ、手前の凧あげでも見ておいでなさい。……仙波阿古十郎、これから凧をあげます。神田小川町は凧八のからす凧、これよりとんびお迎いのていとござい」
 テンテレツク、と口三味線《くちじゃみせん》で囃しながら、器用な手つきで凧糸をさばき、はずみをつけてヒョイと風に乗せる。
 顎十郎のからす凧は、いったん地面を這って、あぶなく塀ぎわの小溝へ落ちかけたが、そこで、あふッとひと煽りあおりつけられると、ツイと横ざまにのしあがってグングンと空へ。……糸巻からくりだされた糸の先にあやつられ、黒い翼に陽の光をうけて鈍銀色《にぶぎんいろ》に光りながら、まるで、のびあがるようにどこまでもあがって行く。
 のばせるだけ凧糸をくりだすと、顎十郎は、藤波のほうへ振りかえって、
「どうです、なかなかあざやかなもんでしょう。……陽の光をうけてゆるゆると舞っているところなんざあ、まるで生物《いきもの》のよう。こうして糸を持っていると、ブルブルと震えが伝わって来て高みの心が手に感じられるようで、なんともいい心持なものです」
 顎十郎は、自分のからす凧と金座の地内からあがっているからす凧を互いちがいに指さしながら、
「ときに、藤波さん、手前のからす凧はこの通りあんな高みまであがって行きますが、金座のからす凧のほうは、どういうものか、みなあんなふうに、妙に屋棟《やのむね》ちかくを這いまわっている……十が十、ひとつ残らずそうなんだから、チト変だとは思いませんか」
 藤波は気もなく、
「それは、凧の出来にもよれば、大きさにもよる。また、釣のぐあいによって、いろいろあがり方がちがうだろう、かくべつ不思議なんというこっちゃない」
「おや、そうですか。それな
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