の挨拶をするために、こんなところまで出かけて来たのじゃねえ。そんなくだらないことなら、手前はもうこのへんで……」
 顎十郎は、大袈裟に引きとめる科《しぐさ》で、
「まあまあ、お待ちなさい。……相変らず、あなたも癇性だ。……お返事がなければ、手前が釈義いたしましょう。……なぜ、こうポカつくかといえば、この二三日、ずっと南よりの東風《こち》が吹いているからなんです。嘘だと思うなら、浅草の測量所へ行って天文方のお日記を見ていらっしゃい。東東微南と書いてあります。というのは、じつは手前が調べて来たのだから、これに間違いはない」
「風は、東からも吹きゃ、西からも吹く。……それが不思議だとでもいわれるのか」
 顎十郎は手で押さえて、
「不思議はないが、曰《いわく》がある。……ねえ、藤波さん、……一昨日の夜の四ツ(十時)頃、ごらんの通り、この厩が燃上った。……大体において、火の気のないところなんで、どうして、こんなところから火が出たかというと、それは、行灯凧が塀越しにむこうからのびてきて、この屋根へ落っこちたからなんで。……それを見ていた馬丁が五人もいるんだから、これには間違いはないんです。……行灯
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