うなことだ。このぶんでは、どうやら、こんどもまた、あいつの負だな。……さあ、もういい、おれはこれから松平佐渡の部屋へ帰るから。……いずれまた、そのうち……」
 あっけにとられているひょろ松をそこへ残して、ノソノソと長屋門を出ていった。

   二番原《にばんはら》

 朝のうちは霜柱《しもばしら》が立つが、陽がのぼると相変らず春のようないい陽気。河岸ッぷちの空地の草の上に陽炎《かげろう》がゆらめく。
 神田、鎌倉河岸から雉子橋《きじばし》ぎわまで、ずっと火除地《ひよけち》で、二番原から四番原までのひろい空地は子供たちのいい凧あげ場になっている。
 神田川をへだてたむこうが、一ツ橋さまの屋敷で、塀の松の上、紺青色《こんじょういろ》に深みわたった空のなかに、ものの百ばかりも、さまざまな凧が浮かんでいる。
 十二三を頭に七つ八つぐらいなのが小百人、駈けまわったり、からみあったり、夢中になって遊んでいる子供たちにまじって、土手ッぷちの草むらで凧をあげている顎十郎。
 垢じんだ素袷を前さがりに着、凧の糸のはしを帯前にむすびつけ、懐手の大あぐら。衿もとから手さきだけ出して長い顎のはしをつまみながら
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