していらしたようです。……日頃、落着いた殿さまが、あんな取りつめた顔をなさるからは、なにか、よっぽどのことがあったのだろうと思いますが……」
 のんきなことを言いあっているとき、部屋の上框《かみがまち》のほうで、
「ちょいと……おたずね申します」
 三平は、いどころで、無精ッたらしく首だけ上框のほうへねじむけ、
「なんだ、なんだ……なにをおたずね申してえんだ。……いま手がふさがっているから、そこで大きな声で我鳴《がな》りねえ」
「こちらに、もしや、仙波先生がおいでではありませんでしょうか」
「仙波先生なら……」
 顎十郎は首をふって、
「いねえと言え、いねえと言え」
 上框のほうでは、その声を聞きつけて、
「そういう声は阿古十郎さん。……居留守をつかおうたって駄目です、ここまで筒ぬけですよ」
 顎十郎は、額へ手をやって、
「ほい、しまった、聞えたか」
「聞えたかはないでしょう。……あっしですよ、ひょろ松です」
「うむ、ひょろ松か。……わかったらしょうがない、まあ、上れ」
 大きな囲炉裏の縁をまわってこっちの部屋へやってきたのは例のひょろりの松五郎。
 二升入りの角樽《つのだる》を投げだすように坊主畳の上へおくと、首すじの汗をぬぐいながら、
「あなたのいどころを捜すので、お曲輪《くるわ》中の大部屋をきいてまわりましたよ。……脇坂の部屋へ行きゃ榎坂へ行った。……榎坂へ行きゃ、土井さまの部屋へ行った。……この角樽をさげて汗だくだく、足を擂木《すりこぎ》のようにしてようやく捜しあてたのに、いねえと言えはないでしょう」
 顎十郎は、長い顎のさきを撫でながら、のんびりした声で、
「お前はとかく厄介なことばかり持ちこむんで恐れる。……見りゃあ、角樽なんかかつぎこんだようだが、これは悪いきざしだ。また、いつものように、折入ってひとつ、お願い、と来るのじゃないのか。……おれは、もうごめんだぜ」
 ひょろ松は喰いさがって、
「そう早く話がわかってくださりゃ、これに越したことはありません。……じつは、お見とおしの通りなんで。……ときに、これは、昨日、品川へついたばかりの堺の新酒。……わずかばかりですが持ってまいりました」
 顎十郎は、いまいましそうな顔で、
「長なが旱《ひでり》つづきのところへ、灘《なだ》からついた新酒というんじゃ、聞いただけでも待ちきれねえ」
「まあ、ひとつ召しあがれ」
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