顎十郎捕物帳
紙凧
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)鞴祭《ふいごまつり》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)金銀改役|後藤庄三郎《ごとうしょうざぶろう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「ころもへん+施のつくり」、第3水準1−91−72]
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   新酒

「……先生、お茶が入りました」
「う、う、う」
「だいぶと、おひまのようですね。……鞴祭《ふいごまつり》の蜜柑がございます、ひとつ召しあがれ」
「かたじけない。……季節はずれに、ひどくポカつくんで、うっとりしていた」
 大きなあくびをひとつすると、盆のほうへ手をのばして蜜柑をとりあげる。
 十一月の入りかけに、四五日ぐっと冷えたが、また、ねじが戻って、この三四日は、春のような暖かさ。
 黒塗の出格子窓から射しこむ陽の光が、毳《けば》立った坊主畳《ぼうずだたみ》の上へいっぱいにさす。
 赤坂、喰違《くいちがい》の松平佐渡守《まつだいらさどのかみ》の中間部屋。
 この顎十郎、どういうものか、中間、陸尺、馬丁なぞという手やいに、たいへん人気がある。あちらの部屋からも、こちらの部屋からも、どうかわっしどものほうへも、と迎いに来る。
 ※[#「ころもへん+施のつくり」、第3水準1−91−72]《ふき》のすりきれた古袷と剥げッちょろ塗鞘の両刀だけの身上《しんしょう》。
 本郷の金助町に、北町奉行所の与力筆頭をつとめる森川庄兵衛というれっきとした叔父がいて、そこへさえ帰れば、小遣いに困るようなこともないのだが、この十月、甲府の勤番をやめてヒョロリと江戸へ舞いもどって来た日いらい、ほうぼうの部屋をころがり歩いて、叔父の家へは消息《しょうそく》さえしない。
 叔父庄兵衛の組下で神田の御用聞、ひょろりの松五郎だけが顎十郎が江戸に帰って来ていることを知っているが、金助町へ知らせないようにと堅く口どめしてある。
 そういうわけだから、金ッ気などのあろうわけがない、まるっきり文無し。中間、陸尺のほうでもそんなことは先刻ご承知。
 無理にじぶんの部屋へ引っぱってカモにしようの、振るまいにつこうのというのではない。気ままに寝ッころがらしておいて、寄ってたかって世話を焼
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