き、ぽってりと長い顎を撫でて、うへえと悦に入る長閑《のどか》な顔が見たいのだという。
 脇坂《わきざか》の部屋を振りだしに榎坂《えのきざか》の山口周防守《やまぐちすおうのかみ》の大部屋、馬場先門《ばばさきもん》の土井大炊頭《どいおおいのかみ》、水道橋の水戸《みと》さまの部屋というぐあいに順々にまわって、十日ほど前から、この松平佐渡守の中間部屋に流連荒亡《りゅうれんこうぼう》している。
 顎十郎は、色のいい蜜柑を手の中でころがしながら、
「おい、三平、これが鞴祭の蜜柑か」
「へい」
 顎十郎はニヤリと笑って、
「ごまかしても、だめだ。……こりゃあ、鞴祭の撒《ま》き蜜柑じゃねえ、屋敷の御厨《みくりや》部屋からくすねてきたんだろう」
 三平という中間は、えへ、と頭へ手をやって、
「あいかわらず先生にはかなわない。……ど、どうして、それがわかります。……蜜柑にしるしでもついていますか」
「これは、河内《かわち》で出来る『八代《やつしろ》』という変り蜜柑で、鍛冶屋や鋳物師《いものし》の二階の窓から往来《おうらい》へほおる安蜜柑じゃねえ。……ご親類の松平河内守《まつだいらかわちのかみ》から八日祭のおつかいものに届いたものに相違ない。……それを、お前がチョロリとちょろまかして来た。……どうだ、お見とおしだろう」
 三平は恐れ入って、
「まったくのその通りなんで……。さっきお雑蔵《ぞうぐら》の前をとおると、入口の戸があいていてトバ口に蜜柑の籠がつんだしてある。……いい色ですから、先生にお目にかけようと思って……」
「つかみ出して、早いとこ、臍《へそ》のあたりへ五つ六つ落しこんだ……」
「えッ、臍……どうして、そんなことまで」
「蜜柑の肌に褌《ふんどし》のあとがついている」
「じょ、冗談……」
 顎十郎は、ゆっくり蜜柑をむきながら、
「だいぶ、ひっそりしているな、みな、出はらったか」
「さきほどお城からお下りになりますと、すぐお伴をそろえて神田橋の勘定屋敷《かんじょうやしき》へお出かけになりましたんで……」
「この月は、佐渡守はお勝手方の月番じゃなかったはずだが」
「へえ、そうなんで。……あッしどもは、くわしいことは知りませんが、なにか、金座《きんざ》にどえらい間違いがあったんだそうで……」
「ほほう」
「駕籠があがるとき、チラとお見かけしたところじゃ、なにか、だいぶとむつかしい顔を
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