ときに、ひょろ松、お前、あの前の晩の四ツごろ、金座の川むこうの松平越前の厩《うまや》で小火《ぼや》があったことを知っていたか」
 ひょろ松は首をふって、
「いえ、存じませんで。……なにしろ、この件にかかりっきりで、とても小火までは手がまわりませんや」
「江戸の御用聞はおっとりしているというが、ほんとうだ。……小火がでた松平越前の屋敷は、川ひとつへだてて、ちょうど金座のまむかいなんだが、お前は、はてな、とも思わないのか」
 ひょろ松は笑って、
「川越しに、金座から放火《つけび》でもしたわけでもありますまい、それが、なぜ妙なんで」
 顎十郎は、たんねんに糸巻に凧糸をまきつけると、凧と糸巻を手に持って、
「……きのう金座から帰って、部屋で寝ころがっていたら、松平越前の厩番が遊びにきて、ゆうべの四ツごろ、行灯《あんどん》凧が厩の屋根へ落っこちてボウボウ燃えあがった。……早く見つけて大事にならねえうちに消しとめたが、もうすこし気がつかずにいたら、飛んだ大ごとになっていた。……おかげで、こちとらは、水だ、竜吐水《りゅうどすい》だ、で、えらい骨を折らされた、と言っていた。……どうだ、ひょろ松、これでも妙だとは思わないか」
「へへえ、行灯凧がね……」
「わからなけりゃ、わからなくともいい……。おれは、これから松平越前の厩へ行って見るつもりだが、ちょいと話したいことがあるからといって、藤波を呼んで来てくれ。……おれからの呼びだしだといや、あいつも意地づくだから、かならずやって来るだろう」
「そんなお使いならお安いご用ですが、藤波に呼びだしをかける以上、なにか、きっぱりしたお見こみでもあるのですか」
「見こみは、これから考える。……まあ、なんでもいいから、藤波のところへ行って、ご足労だが、仙波阿古十郎が松平越前の厩わきで待っているからすぐ出むいてくれ、と言ってくれ」
「へい、よろしゅうございます。……どうせ、あなたのすることだ、まともに受けてたんじゃしょうがねえ。……よござんす、行くだけは行って来ますから、泣かずに遊んでいらっしゃい」

   小火

 矢場のとなりが広い馬場で、その横に厩が長い横羽目を見せている。
 二日前の晩、小火があったあとで、厩の片はしのほうが五間ばかり半こげになり、馬立ての丸太が黒こげになって、ビショビショの地面の上にいくつも寝ころんでいる。
 火事あとの水た
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