た顔つきになり、
「こりゃア、旦那のなさることとも思えねえ。……そ、そんなことをしたら……」
藤波は、手酌でぐっとひっかけておいて、驕慢《きょうまん》に空嘯《うそぶ》くと、
「ふッふッふ……ところで、甚《はなは》だ遺憾にぞんずるが、杉の市は直接《さしあ》たっての下手人《げしにん》じゃねえ。どうしてどうして、これにゃア複雑《いりく》んだアヤがある。こいつを、ほぐせたら大したもんだ。……それで、ひとつ、お手並を拝見しようと思っての。なにしろ、こんどは、こっちが叩きのめしてやる約束だから……」
冥土《めいど》へ
「おい、ひょろ松……おい、ひょろ松……」
垢染んだ黒羽二重の袷を前下がりに着、へちまなりの図ぬけて大きな顎をぶらぶらさせ、門口《かどぐち》に立ちはだかって、白痴《こけ》が物乞するようなしまりのない声で呼んでいるのが、顎十郎。
これが、江戸一と折紙《おりがみ》のついた南の藤波友衛を立てつづけに三四度鼻を明かしたというのだから、まったく嘘のような話。
ちょっと類のない腑抜声《ふぬけごえ》だから、すぐその主がわかったか、奥から小走りに走り出して来たのは、北町奉行所与力筆頭
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