た顔つきになり、
「こりゃア、旦那のなさることとも思えねえ。……そ、そんなことをしたら……」
藤波は、手酌でぐっとひっかけておいて、驕慢《きょうまん》に空嘯《うそぶ》くと、
「ふッふッふ……ところで、甚《はなは》だ遺憾にぞんずるが、杉の市は直接《さしあ》たっての下手人《げしにん》じゃねえ。どうしてどうして、これにゃア複雑《いりく》んだアヤがある。こいつを、ほぐせたら大したもんだ。……それで、ひとつ、お手並を拝見しようと思っての。なにしろ、こんどは、こっちが叩きのめしてやる約束だから……」
冥土《めいど》へ
「おい、ひょろ松……おい、ひょろ松……」
垢染んだ黒羽二重の袷を前下がりに着、へちまなりの図ぬけて大きな顎をぶらぶらさせ、門口《かどぐち》に立ちはだかって、白痴《こけ》が物乞するようなしまりのない声で呼んでいるのが、顎十郎。
これが、江戸一と折紙《おりがみ》のついた南の藤波友衛を立てつづけに三四度鼻を明かしたというのだから、まったく嘘のような話。
ちょっと類のない腑抜声《ふぬけごえ》だから、すぐその主がわかったか、奥から小走りに走り出して来たのは、北町奉行所与力筆頭、叔父森川庄兵衛の組下、神田の御用聞、蚊とんぼのひょろ松。
草履を突っかけるのももどかしそうに門口へ飛んで出るより早く、
「おお、阿古十郎さん……実ア、いま、脇坂の部屋へお伺いしようと思っていたところなんで……」
顎十郎は、懐中から一通の封じ文を取り出すと、ひょろ松の鼻の先でヒラヒラさせながら、
「おい、ひょろ松、藤波のやつが、こんな手紙をよこした。……千賀春が、どうとかこうとかして、鍼が乳房へぶッ刺さって、按摩の杉の市は左ききだから、とても甘えものはいけねえだろうのどうのこうの。……実ア、まだよく読んでいねえのだが、なにやら、ややこしいことがごしゃごしゃ書いてある。……大師流で手蹟《て》はいいが、見てくればかりで品がねえ。筆蹟は人格を現すというが、いや、まったく、よく言ったもんだ、こればっかりは誤魔化《ごまか》せねえの。鵜《う》の真似《まね》、烏《からす》……牡丹に唐獅子、竹に虎、お軽は二階でのべ鏡か……」
例によって、裾から火がついたように、わけのわからぬことをベラベラとまくし立てておいて、急にケロリとした顔をすると、
「それはそうと、ぜんてえどうしたというのだ、千賀春という
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