辺を拭きまわりながら、
「でも、まるっきり傷なんてえものは……」
藤波は、ニヤリ笑って、
「ときに、千太、千賀春は、どっちの手に撥を持って死んでいた?」
千太は、こうっと、と言いながら、科《しぐさ》でなぞって見て、
「あッ、左手でした」
「千賀春は、左ききか」
「そ、そんな筈はありません」
「妙じゃねえか」
千太は、眼を据えて、
「な、なるほど、こりゃア、おかしい」
急に、膝を乗り出して、
「すると、殺っておいて、誰か手に持たせた……」
「まずな。……殺ったやつは、たぶん、左ききででもあったろう」
「ありそうなこってすね。しかし、どうして殺ったもんでしょう。いまも申しあげた通り……」
「鵜の毛で突いたほどの傷もねえ、か。……ところで、見落したところが一カ所ある筈だ」
「見落し。……これでばッかし飯を喰ってる人間が五人もかかって、いってえどこを見落しましたろう」
ズバリと、ひとこと。
「乳房のうしろ」
千太は、ひえッと息をひいて、
「いかにも、……そこにゃア気がつかなかった」
藤波は、うなずいて、
「あんなものがぶらさがっていりゃア、誰だって、こりゃア気がつかねえ。……どうも、がてんがゆかねえから、最後に、あの、……袋のような馬鹿気たやつを、ひょいともたげて見ると、乳房のうしろに針で突いたほどの、ほんの小さな傷がある。……おれの見たところでは、たしかに、鍼痕《はりあと》。……心臓の真ン中。……あそこへ鍼を打たれたら、こりゃア、ひとったまりもねえの」
千木は、感にたえたようすで、
「なるほど、うまく企みやがった」
「近所で聞き合わして見ると、杉の市という按摩鍼《あんまはり》が、いつも千賀春のところへ出入りしていたという。……内職は小金貸《こがねかし》。……これが、夫婦になるとかなんとか、うまく千賀春に蕩らしこまれ、粒々辛苦《りゅうりゅうしんく》の虎の子を根こそぎ巻きあげられ、死ぬとか生きるとか大騒ぎをやらかしたというのは、ついこないだのこと……」
といって、眼の隅から、ジロリと千太の顔を眺め、
「なんのこたアねえ、こいつが、左きき」
「おッ、それだ」
「そこで、おりゃア、つい先刻《さっき》、顎十郎に手紙を書いて持たせてやった。……千賀春こと人手にかかってあえない最期。辱知《じょくち》の貴殿に、ちょっとお知らせもうします、といってな」
千太は、むっとし
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