かけすずり》から盗みだして渡したが、手を切るとは真赤な嘘。お前のような洟《はな》ッたらしが、あたしと遊ぼうなんてそもそもふざけたはなし。……これは今までの玉代《ぎょくだい》にとっておく。……一昨日《おととい》おいでと蹴り出され、あげくのはて、五十両の件が露見《ばれ》て家は勘当。田村町《たむらちょう》の髪結の二階にひっそくして、三度の飯にも気がねするというひどい御沈落。……くやしくってならねえから、講談で聞いた谷口検校から思いついて、これならよもや判りっこはねえだろうと、素人《しろうと》でも打てるように、杉山流《すぎやまりゅう》の管鍼《くだばり》を買い、自分の膝を稽古台にして、朝から晩まで鍼打ちの稽古。ちょうど一週《ひとまわり》ほどすると、どうやら打てるようになったから、これでよしと昨夜《ゆうべ》の亥刻頃《よつごろ》(午後十時)そっと忍んで行って勝手口から隙見して見ると、千賀春はずぶろくになって長火鉢にもたれて居眠っている」
「天の助けと……」
「天の助けと、這いよって、ゆすぶって見たが、へべれけで正体ねえ。……そっと引き倒しておいて、乳房のうしろへ、ズップリと一ト鍼。……ピクッと手足をふるわせたようだったが、もろくも、それなり。……引起してもとのように長火鉢にもたれさせ、ざまあ見ろ、思い知ったか、で、シコリの落ちたような気持になって、また裏口から飛び出した……」
ひょろ松は、急に顔を顰《しか》め、
「……ところで、妙なことがあります」
「ふむ」
「千賀春は、右手にも左手にも……撥なんざあ持っていなかったと言うんです」
「はてね」
「もちろん、自分は、そんな器用なことは出来なかった、やってしまうと急に浮きあし立って、長火鉢にもたれさせるのもやっとの思い、雲をふむような足どりで逃げ出しました……」
顎十郎は、トホンとした顔つきで天井を見あげていたが、急にひょろ松のほうへふりむくと、
「ときに、千賀春の死骸はまだそのままにしてあるだろうな」
ひょろ松は、上り框《がまち》から腰を浮かし、
「なにしろ、医者の診立てが早打肩。それに検死がすみましたもんですから、今朝の巳刻《よつどき》(午前十時)家主とほかに二人ばかり引き添って焼場へ持って行ってしまいました」
顎十郎は、立ち上ると、
「そいつは、いけねえ」
いきなり、ジンジン端折りをすると、いまにも駈け出しそうな勢いで
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