殺したなんてことは誰れの考えにもなかッたことなんで……」
 藤波は焦ら立って、
「すると、石井先生にも判定のつかねえような毒を、どこのどいつが見分けたというのだ」
 千太は、無念そうに唇を噛んで、
「またしても、顎の化物の仕事なんでございます」
 藤波は、ちぇッと舌を鳴らして、
「おい、あの顎はなんだ、神か、仏かよ。……多寡《たか》が番所の帳面繰りじゃねえか、馬鹿にするな。なるほど、今まではちッとは小手先の器用なところも見せたが、そこまでの智慧があろうとは思われねえ。……おい千太、念のために聞くが、では、その忠助という手代は、石井先生にも判らねえような巧妙な毒を盛れるような、そんな才覚《さいかく》のありそうなやつなのか」
「飛んでもない、まるっきり、ふぬけのような男なんでございます。とてもそんなことをしそうなやつじゃアございません」
 藤波は、なんとも冷然たる顔つきになって、急に立ち上ると、
「おい千太、出かけよう」
「えッ、出かけようといって、一体、どこへ」
「わかってるじゃねえか、顎化《あごばけ》と一騎打ちに行くのだ。……口書《くちがき》も爪印《つめいん》もあるものか、どうせ、拷問
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