ころだった。見れば、あなたのかたびらの紋も二蓋亀。……なんだか、ほのかな気持になりましてね、どうも、あなたを斬る気がしねえんだ。ゆるしてあげるとしよう」
 顎十郎は袖を払うようにして、のっそりと今きたほうへ歩き出す。藤波は、千太とチラと眼を見あわせ、せせら笑いながら、
「なにを、たわけた。……さあ、帰《け》えろう」
 二人は反対のほうへ帰りかける。その途端、藤波の背中で、エイッという劈《つんざ》くような気合もろとも、チャリンという鍔鳴りの音。
「やるか!」
 藤波が腰をひねって、とっさにすっぱ抜こうとすると、この時、顎十郎は懐手をして、もう四五間むこうをゆっくりと歩いていた。
「なんだ、つまらぬやつ」
 千太は、聞えよがしに、
「眼の前で『顎』とひと言いうと、かならずぶった斬ると評判だけは高えが、なんのことやら……」
 と言って、藤波のうしろから歩き出そうとし、とつぜん、うわッと声をあげ、
「旦那!」
「なんだ、けたたましい」
「せ、背中の紋が丸く切りとられて、膚《はだ》が出ています」
「えッ」
 かたびらの背中だけが紋なりに丸く切りとられ、膚には毛ほどの傷もついていなかった。
 ぞっ
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