、しまった、お里が知れたか。もっとも、おやじはつましいひとだったから、たいてい、そのくらいのところであろう……なにしろ、臍の緒を切って以来、はじめて釣りをするんだから、道具負けするようでもおかげがねえ、ころあいなのを選んで一式纒めてくれ。もっとも魚籠《びく》は、鉄砲|笊《ざる》の古いのがあったから、あれを使うことにしよう。餌筥は、楊枝《ようじ》筥の古いので間に合うだろう。肝心なのは竿に糸に鈎。このほうは物干竿や小町糸で間に合わせるわけにもいくめえからの」
 勝手なことをいいながら、安物の釣竿に黒渋糸とてぐすを少しばかり、それに、一文鈎を五本がところ買い求めて、呆れ顔をした番頭を尻目にかけ、竿を肩にひっかついで、ひょろりと往来へ出て行った。
 この顎十郎、本郷弓町の乾物屋の二階に寝っころがって、毎日のんきらしく古い捕物控を読みちらしている。所在なさの暇潰しばかりではなく、なにか、相当、量見のあることとも考えられるのだが、世の常の勉強ぶりとちがって、朱筆を入れるわけでもなければ、書きぬきをするわけでもない。畳のうえに腹|匍《ば》いになって、鼻の穴をほじりながら、気がなさそうに走り読みをして
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