ことであった。
 顎十郎は、うむ、とうなずいて、
「今に釣れるから、そうしたら、よッく竿の先を見ていろ、眼をはなすな。……言うがにまさる、いやおうなく、なっとくのいくことがある」
「へえ」
 といって、ひょろ松、餌をつけかえて鈎を沖に投げこみ、腰をひねって竿の先をさむらいもののほうに向け、凝ったようになって向うの竿先をにらみ始める。目通しにこちらの竿の先と向うの竿の先が一点になって。……これも心得のあることである。
 それから、ややしばらく、さむらいものの籠手《こて》になにかチラと気勢がうごく。
 はッと息をつめていると、沖に直《すぐ》にのべた手の拳も膝もゆらりとも動かず、ただ、竿先だけが虚空《こくう》に三寸ばかりの新月をえがいたと思うと、どういう至妙の業によるのであろう、鈎先は青鱚をつけたまま、おのずからはね返って魚籠の中に入った。業というか気合というか、なににせよ、剣道の至奥《しおう》にも疏通《そつう》した、すさまじいばかりの気魄であった。
「どうだ、ひょろ松、合点《がてん》がいったか」
 ひょろ松は、額にびっしょりと冷汗をかき、
「おそれ入りました」
「間違いはねえだろう」
「ま
前へ 次へ
全25ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング