稲荷《しんみなといなり》のまえに俯《うつ》ぶせに倒れていた。門跡様《もんせきさま》からの帰りであった。二十両余りの金を懐中にしていたが、それもそのまま残っていた。ほかにもなにひとつ失くなったものはない。
 それから、一日おいて次の夜、佐竹の家臣で、相当腕のたつ武士が、これもやはり、同じように咽喉を斬られ、越前堀《えちぜんぼり》の『船松』という網船の横丁の溝の中で死んでいた。……こんな具合に、つぎつぎに五人まで同じような死にかたをしている。
 その傷は極めて異様なもので、左の耳の後から咽喉仏《のどぼとけ》の方へ偃月形《みかづきがた》に弧を描いて刎《は》ねあげられている。ひといきに頸動脈をふかく斬られ、斬られたほうは、恐らくあッというひまもなく即死したであろう。
 どの死体にも判で捺したように、見事な鎌形の傷があることと、なにひとつ所持品が失われていないことが、この事件の特徴であるが、その傷口を、かれこれ照合してみると、場所といい、大きさといい、また、鎌なりのその形もいずれも寸分のちがいはない。
 最初は、傷跡が示すとおり、鎌で掻き切って殺したのだという説がたった。やりすごしておいて、後から突然におどりかかり、刃先を咽喉から耳のほうへひいたのだというのである。一応もっともな意見だ。
 ところが、傷口を仔細に調べてみると、傷口は横側のほうが浅く、咽喉仏へ行くほど深くなって、とたんに顎のほうへ刎ねあげられている。後から襲いかかって手許へ引いたのならば、こんな傷は出来ぬ筈である。
 そればかりではない、なお、入念に改めてみると、鎌形に咽喉を掻き切るまえに、切尖《きっさき》がすこし戦《そよ》いだような、すこし切尖を違えたような、小さな不思議な掻き傷があって、それからいきなり深い新月なりの傷がはじまるのである。
 かりに、ひとが斬ったとなると、行違いざま抜打ちにやったのだと思うほかはないが、実際にやってみると、須臾《しゅゆ》のあいだに、こんな見事な傷をつけるということは、いかな達人でもとうてい不可能である。いわんや、場所も形も大きさも、いずれも寸分違わないということになれば、人間わざの及ぶところではないのである。けっきょく、これは鎌鼬《かまいたち》の仕業だということになった。
 古いころから、人が通り風の気にふれると、不意に皮膚が裂けて鎌形の傷がつき、甚《はなは》だしく出血して生命《いのち》をおとすことがあった。越後《えちご》や信濃《しなの》や京都の今出川《いまでがわ》の辺ではたびたびあったことである。
 鎌形の傷を鎌風といい、これはかまいたち[#「かまいたち」に傍点]という妖魔の仕業だとされていた。
『倭訓栞《わくんのしおり》』に、
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奥州越後信濃の地方に、つじ風の如くおとづれて人を傷す。よつて鎌風と名づく、そのこと厳寒の時にあつて、陰毒の気なり、西土にいふ鬼弾の類なりといへり。
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 とみえている。いま庄兵衛の膝のうえに拡げてあるのがその『倭訓栞』。つまり、庄兵衛は今までこのかまいたち[#「かまいたち」に傍点]と首っぴきをしていたのである。
 庄兵衛がいつまでもにが虫を噛んでいるので、花世は手持無沙汰になったものとみえ、
「ねえ、かまいたち[#「かまいたち」に傍点]なんぞ、ほんとにいるものなのでしょうか」
 庄兵衛は眼鏡越しに、例のお不動様の三白眼でじろりと花世の顔を見あげながら、
「はて、いないでどうする。そもそも、かまいたち[#「かまいたち」に傍点]とは……」
 花世はニッコリと笑って、
「はい、そもそもは、もう結構。それは耳にたこのよるほど伺いました。……では、それはいったい、どんなかたちをしているのかしら。いたちが鎌を持っておりますの。……ちと、うけとれぬ話だわねえ」
「いたちがなんで鎌などを持つ、ばかめが。……つまり、なんだ、ひとくちに申せば、飛びっちがいに、爪で掻き切るのだわい。えい、うるさい」
「まあ、こわいこと……はやくつかまえて、爪を切っておやんなさいまし」
「なにをくだらぬ……天下の与力筆頭が、いたちなどにかかずらっておられるか、たわけたことを」
「天下の与力筆頭も鎌鼬にかかっては、手も足も出ぬそうな。それならばいいことがござります」
 といって、気をもたせるように忍び笑いをする。
 庄兵衛は、焦れ切って、
「焦らさずに、早く申せ。……なにか、いい智慧でもあるのか」
「両国から香具師《やし》を呼んでおいでなさいませ」
「はて、香具師をどうする」
「香具師と板血《いたち》とは友達だそうでございます」
 庄兵衛は、一本やられて、うむ、といって苦りきってしまった。
 そこへ、ひょろ松が入って来た。
 見ると、いつものざっかけない衣装とちがって、八反《はったん》の上下に茶献上の帯。
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