、しまった、お里が知れたか。もっとも、おやじはつましいひとだったから、たいてい、そのくらいのところであろう……なにしろ、臍の緒を切って以来、はじめて釣りをするんだから、道具負けするようでもおかげがねえ、ころあいなのを選んで一式纒めてくれ。もっとも魚籠《びく》は、鉄砲|笊《ざる》の古いのがあったから、あれを使うことにしよう。餌筥は、楊枝《ようじ》筥の古いので間に合うだろう。肝心なのは竿に糸に鈎。このほうは物干竿や小町糸で間に合わせるわけにもいくめえからの」
勝手なことをいいながら、安物の釣竿に黒渋糸とてぐすを少しばかり、それに、一文鈎を五本がところ買い求めて、呆れ顔をした番頭を尻目にかけ、竿を肩にひっかついで、ひょろりと往来へ出て行った。
この顎十郎、本郷弓町の乾物屋の二階に寝っころがって、毎日のんきらしく古い捕物控を読みちらしている。所在なさの暇潰しばかりではなく、なにか、相当、量見のあることとも考えられるのだが、世の常の勉強ぶりとちがって、朱筆を入れるわけでもなければ、書きぬきをするわけでもない。畳のうえに腹|匍《ば》いになって、鼻の穴をほじりながら、気がなさそうに走り読みをしては放り出す。馬鹿でなければ、よほど鋭い頭の持主なのかもしれぬ。ともかく、茫漠としてとらえどころがないのである。
ところで、以前こんなことがあった。
甲府勤番のころ、町方で検校《けんぎょう》が井戸にはまって死んだ。
ひとり者だが裕福な男で、身投げをするわけなぞはないと思われたが、身寄りが寄って葬いを出そうとしているところへ、ふらりと顎十郎がやって来て、検校は足が下になっていたか頭が下になっていたかとたずねた。頭が下になって逆立ちをしておりましたと井戸へ入った男が答えると、そんならば身投げをしたのではなくて、ひとに投げこまれたのだ、といった。井戸に身を投げるときは、かならず足のほうから飛びこむもので、頭から飛びこむなどということは、百にひとつもないことだ、といった。
調べてみると、検校の家の下男が、隠してあった主人の金を盗むために、井戸へつきおとしたのだということがわかった。
また、もうひとつ、こんなことがあった。
甲府勤番をやめて上総へ行き、富岡の顔役の家でごろついているころ、すぐそばの町の古手屋《ふるてや》から自火を出し、隠居が焼け死んだ事件があった。
顎十郎は懐手をしながら、まだいぶりかえっている焼跡をうっそりと眺めていたが、黒焦げになった死骸を見ると、連れの遊び人のほうへふりかえって、
「これは、焼け死んだのじゃねえ、だれかが殺してから、火の中へ投げこんだのだ。焼け死んだのなら、死骸は瓦の下にあるのが本当だろう。ところで、この死骸は瓦の上にある」
といった。
聞いたほうは驚いて、出役の同心に耳うちした。調べてみると、果して顎十郎のいった通りだった。
富岡の親分が顎十郎の眼力を褒めると、顎十郎はてれくさそうに笑いながら、
「こりゃアおれの知慧じゃねえ、『雪寃録《せつえんろく》』という本に書いてあることです」
と、いった。
風魔《ふうま》
泉水にさざなみがたち、青葉の影がゆれる。
広縁《ひろえん》のきわへ、むんずりと坐りこみ、膝のうえに青表紙《あおびょうし》の本をのせ、矢たてと懐紙《かいし》箱をひきつけ、にが虫を噛みつぶしたような顔をして、しきりに灰吹きをたたきつけているのが、庄兵衛組の組頭、森川庄兵衛。
小さな髷節を薬罐頭のてっぺんにのせ、こんがら[#「こんがら」に傍点]童子に渋を塗ったような因業な顔を獅子噛ませ、いまいったように、煙管をとり上げたり投げ出したり、腕を組んだりほぐしたり、見る眼にも、なかなか多忙をきわめるのである。
すこし離れたところに、きっぱりした顔だちの、十七八の美しい娘が、すんなりと坐っている。
庄兵衛の娘の花世。四十になってからのひとりっ子なので、まるで眼のなかへでも入れたいような可愛がりよう、普断ならば、寄って来られただけで、もう他愛なくなってしまうほどなのに、今日はどういう風の吹きまわしか、花世がそばにいるのさえ気づかぬ様子である。
庭には季節の花がある。
こうして矢たてや懐紙をひきつけているところは、下手な俳諧でもひねっているように見えるが、どうして、そんな細かい味をもったおやじではない。このごろ、江戸の市中を騒がしているかまいたち[#「かまいたち」に傍点]の事件を苦吟中なのである。
この月のはじめから、江戸の市中に不思議な事件が起きる。どうにもとらえどころのない事件で、それだけに江戸の人士を竦《すく》みあがらせている。
一日ずつあいだをおいて、続けざまに五人まで、の深く咽喉を斬られて街上に倒れていた。
最初の犠牲者は本所猿江《ほんじょさるえ》の金持の隠居で、新湊
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