ぎれもございません」
「喉《のど》の鎌形傷の始まるまえに、きまって切ッ先が戦《そよ》いだような傷があるだろう。あれは、竿を合せる前にチラと籠手へかかった気合傷だ」
「よくわかりましてございます」
「それにもうひとつ。鱚がはね返って来た時、なんとも微妙に身体《からだ》をひねって魚をよけたが、あれは返り血をよけるこつとおなじようだ。……剣術が先か魚釣りが先か、おれにはどちらともわからねえが、おそらくたいへんな修業をしたものだ。……鱚を釣って人の喉を鎌形に抉《えぐ》る練磨をつむなどというのは、だいぶ格はずれな執心《しゅうしん》だの。……切先をあわせられたやつこそいいめいわくだ。鉄炮洲の二歳鱚なみにされちゃアおかげがねえからの」
 ひょろ松のほうは、心も落ちいぬようすで、むさんにさむらいものをにらみつけ、今にも竿を捨てて、そのほうへ走り出しそうにする。顎十郎はその手を控え、
「ひょろ松、おまえらしくもない、うわずった真似をするな。おまえが一人でとびこんで行ったって、繩をかけられるような相手じゃない。やくたいもねえいのちの使いかたをしちゃアならん」
 といって、竿を肩にひっかつぐと、
「じゃ、おれはこれでけえるぜ」
「阿古十郎さん、なんとかひとつ手を貸して……」
 顎十郎は、にべもなく袖をふり払って、
「じょうだんいうな、おれなんぞのでる幕じゃない。おれは、番所で古帳面を繰っている例繰方だ。人殺しの肩に手をおくような、いやな真似はしねえのだ」
「でも、みすみすこうして……」
「あわてるな、ひょろ松、いま汐があげて来たばかりだ。あのさむらいものはまだ半刻《はんとき》、小半刻ここにいる。その間に帰ったら、また明日出直してこい。お彼岸ももうすぎた、今日でなければ網をおろせないということもあるめいからの。……だが、よけいなことだが、ひとことだけ言っておく。忘れても右手に廻るな、左へつけ、左へつけ」
「ありがとうございます」
「じゃあ行くぜ。……叔父貴には、きっとないしょにな。……頼むぜ」
「わかっております」
 たちかけた夕靄の中へ、それで、貧乏浦島、ひょろりと消えて行った。
 すこし離れた上手《かみて》の渚で、庄兵衛が、おい、ひょろ松、鷹羽鯛《たかのはだい》がついた、と大騒ぎをしている。

 鎌いたちの主、明石新之丞《あかししんのじょう》がつかまった夜、花世が、顎十郎にたずねた。

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