ばこそ、ありがてえと思いなさい」
 ひょろ松のほうを見かえり、
「おお、こりゃアごうせいにめかしているな。ちょうどいい、おまえもつきあえ、江戸一の御用ききが魚に釣られてる図なんざアよっぽど季題になるわ。今日はいやおうはいわせねえ」
 なにか曰くがありそうである。
 花世は、すぐ察して父のそばへにじりよると、
「ねえ、こんなところに獅子噛んでばかりいずと、ちと、魚にからかわれておいでなさいませ、あんがい、かわった魚も泳いでいるかもしれません」
 さあさあとひき立てるようにする。

   鉄炮洲

 日並《ひなみ》がいいので、対岸の佃の岸のあちこちに網が干してある。
 海面いっぱいに夕陽が照りかえし、うっすらと朱を流す。
 鉄炮洲の高洲には、この七八丁の間、渚《なぎさ》一体に人影が群れ、あげおろす竿に夕陽があたって、きらきらと光る。
 背高《せいたか》の、二尺ばかりの立込下駄《たつこみげた》を穿いて、よほど沖に杖をついて釣っているのもあれば、腰まで入って横曳釣《よこびきづり》をしているのもある。ちょうど上汐《あげしお》の時期で、どの手許もいそがしそう。
 庄兵衛のほうは、昔はだいぶ凝ったおぼえのある老人だから、屋敷を出る時はうだうだいっていたが、いざ釣りはじめると面白いように喰いつく。れいの凝性《こりしょう》で本式に腰蓑一つになって丈一の継竿《つぎざお》をうち振りうち振り、はや他念のない模様である。
 気の毒なのはひょろ松で、質にとられた案山子《かかし》のように、ぶざまにじんじんばしょりをし、遠くから竿をのばして、気がなさそうに糸を垂れている。
 ところで、顎十郎のほうはいそがしい。
 いつもののっそりにひきかえて、なにが気にいらないのか、糸をおろしたと思うとすぐまた引上げ、上によったり下によったり、そうかと思うと、渚の水を蹴返しながら又ひょろ松のそばへもどってくる。
 さすがに、ひょろ松も気にしだして、
「阿古十郎さん、あなた今日はちと、どうかしていますぜ。……そう、裾から火がついたように駈け廻ったって魚は釣れやしません。……あっしと並んで、ここでしばらく、じっくり鈎をおろしてごらんなせえ」
 顎十郎は、のほんとした顔で、
「おれは、魚と駈けッくらべをしてる気なんだが、なるほどどうも追いつけねえの。……ふん、じゃあ、ここで腰をおちつけてみるとするか。……だが、ひょろ松
前へ 次へ
全13ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング