」に傍点]ぐらいは心得ていますよ」
 顎十郎は、口の中でいくども歌の文句を繰返してから、
「乾かず、というなら、『ず』で、決して『つ』じゃあない。……和学者の裔ともあろう者がこんなつまらぬ間違いをするはずはない。……だいいち、『や』じゃ歌になりはしない」
 腑に落ちぬ顔つきで考えこんでいたが、
「なあ、ひょろ松、この字違いもへんだが、それよりも、この歌そのものがすこぶる妙だ。……『草枕、旅寝の衣かはかつや、夢にもつげむ、思ひおこせよ』……てんで辞世なんてえ歌じゃない。……『夢にもつげむ』となると、一念凝ったというようなところがあるし、『思ひおこせよ』ときては、なにかを察してくれと言わんばかりだ……」
 いつにもなく腕を組んで、
「ひょろ松、これは、なにか、いわくがあるぞ」
「おや、そうでしょうか」
「それで、馬の尻尾のほうはどうなった」
「馬の尻尾、と申しますと」
「渡辺利右衛門という男が、なんのために馬の尻尾なぞ切って歩いたのか、その理由もはっきりわかったのか」
 ひょろ松は、首を振って、
「そのほうは、とうとうわからずじまい。……なにしろ、一人で嚥込《のみこ》んで腹を切ってしまった
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