いようにしてあるのだし、庄兵衛が出てゆくと、すぐ入りちがいに阿古十郎が入って来て、ずっと今まで、ここに寝ころがっていたというのだから、そのわずかの間に忍んで来てそんな素早い仕事が出来よういわれがない。
念のため、一人ずつ糺明して見たが、双互の口合いからおして、一人として錠口までも来たものがないことがわかった。娘の花世に訊ねて見たが、花世も知らないと答えた。
与力の邸へ盗人が忍び入ろうはずもないが、庭へ降りて裏口の木戸を改めて見ると、桟は内側からちゃんとかかっている。
庭のそとはすぐ春木町《はるきちょう》の通りになっているが、高い板塀には黒鉄の厳重な忍返しがついているし、昼間は相当人通りのはげしい通りだから、怪しまれずに板塀を乗り越えることなどは出来ない。となると、やはり持って出て、どこかへ落したのだと思うほかはない。
十日ほど前、芝|田村町《たむらちょう》の路上でちょっとした喧嘩沙汰があった。
斬られたほうは四谷|箪笥町《たんすまち》に住む旗本の三男の石田直衛。双方とも酒気を帯びていて、行きずりの口論から抜きあわせたのだが、相手は直衛の小手に薄傷を負わせておいて逃げてしまった
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