ぬうちに消しとめたが、今度は最近江戸を騒がしたおさめ[#「おさめ」に傍点]殺しの唯一の手懸りとも言うべき、かけがえのない大切な証拠物件を紛失してしまった。
 それは梨地鞘造《なしじさやづくり》の印籠《いんろう》で、たしかに袂へ入れて邸を出たはずなのだが、聖堂の近くまで来たとき、ふと気づいて探ぐって見るとそれが袂の中にない。邸を出る前までたしかに居間の文机《ふづくえ》の上に置いたことはわかっているのだが、なにしろ朝の時間は万年青で夢中になる習慣なので、置き忘れて来たものか持って出たものか、その辺のところがはっきりしない。これは、というので少々青くなって駕籠を傭って邸まで飛び帰り、文机の上を見ると、……印籠などはない。
 座敷の中に棒立ちになってじっくりと考えこんでみたが、どうも落したような気がしない。のたりと座敷に寝ころんでいた阿古十郎にそれとなく訊ねて見たが、そんなものは知りませんねえ、と鼻であしらわれた。
 傭人《やといにん》どもは、みな五年十年と勤めあげた素性の知れたものばかりで、おまけに、この居間には番所会所の書類など置いてある関係上、廊下に錠口をつくって、そこからは一歩も入れな
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