さア、逃げ出せ、……あとで手先を向けてやる」
 呆気にとられて、棒立になっているのへ、
「おい、お前は狐だろう」
「えッ、なんだとッ」
「笠森稲荷から叔父を呼び出しにくる以上、狐の眷属に相違あるまい」
 職人は、ジリジリとあとしざりをしながら、
「ああ、狐だよ、九尾の狐だ。……小癪な真似をして、あとで臍《ほぞ》を噛むなよ。……放されたうえは、手前なんぞに掴まるものか」
 顎十郎は、長大な顎のはしをつまみながら、
「いや、そうはいかん。……俺は捕まえぬが、必ず叔父がつかまえる。……あれでなかなか感のいいほうだから、この万年青の鉢の底にあるお前の印籠の高肉彫を見たら、稲を啣えた野狐の図は、むかし、堀江大弼《ほりえだいひつ》の指物絵だったことを思い出すにちげえねえ、……なア、堀江」
 職人は見るみる蒼白《まっさお》になって、俯向いて唇を噛んでいたが、匕首を腹掛の丼におさめると、首を垂れたまましずかに出て行った。
 顎十郎が錦明宝の鉢を叔父の文机の上に据えて待っていると、夕方近くなって庄兵衛が鼻のあたまを赤くして、かんかんに腹を立てて帰って来た。
 顎十郎は、えへら笑いをしながら、
「どうした 
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