をおとしかけた。風邪ひきなどは、あぶなくて名も呼べやしない。
 この話は庄兵衛も人づてに聞いているので、さすがにそれを憚ると見え、アコ十とかアコ十郎とかと、間違いのないようにはっきりけじめをつけて呼ぶ。ただひとり、この世で阿古十郎を面と向って『顎さん』と呼んで憚らない人間がいる。それは、従妹の花世である。これに限って、阿古十郎は眼をなくして笑いながら、うふふ、なんだい、とくすぐったそうな返事をする。
 あまりにも緩怠至極《かんたいしごく》な阿古十郎の態度に庄兵衛は呆れたり腹を立てたりしているが、しかし、そうばかりもしていられないので、北番所の例繰方《れいくりかた》に空席のあるのを幸い、その株を買って同心の無足見習にしてやった。
 例繰方というのは奉行の下にあって刑律の前例を調べるのが仕事で、割合に格式のある役なのだが、格別ありがたがる風もなく、番所の書庫から赦帳《ゆるしちょう》や捕物帳などを山ほど持ち出し、出勤もせずに弓町《ゆみちょう》の乾物屋《かんぶつや》の二階に寝っころがって、朝から晩までそんなものを読み耽っている。
 庄兵衛が外聞わるがって邸にいろというと、気がつまるといって命令
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