来たということであったが、どこをのたくっているのか一向に寄りつかず、消息さえもなかったが、昨年の暮近く、垢だらけの素袷に冷飯草履をはき、まるで病上《やみあが》りの権八のような恰好で木枯《こがらし》といっしょにひょろりと舞いこんで来た。
その時の言い草がいい。胡坐をかいたまま、懐から手を出してのんびりと長い顎を撫でながら、
「すこし、親類づきあいをしますかな。……叔父上、あなたも、甥の一人ぐらいは欲しい齢になったろ」
と、言った。
それにしても、ふるった面である。こんなふうに床柱などに凭れていると、そそっかしい男なら、へちまの花活でもひっかかっているのかと感ちがいするだろう。眼も鼻も口も、額ぎわにごたごたとひと固りになり、ぽってりと嫌味に肉のついた厖大な顎がぶらりとぶらさがっている。馬が提灯じゃない、提灯が馬をくわえたとでもいうべき、ちんみょうな面相。この顎が春風を切って江戸中を濶歩する。
ところで、この阿古十郎にたいして、たったひとつ禁句がある。それはアゴという言葉。いや、言葉ばかりではない。この男の前でうっかり顎を撫でたばっかりに、いきなり抜打ちに斬りつけられ、二人までいのち
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