ぬうちに消しとめたが、今度は最近江戸を騒がしたおさめ[#「おさめ」に傍点]殺しの唯一の手懸りとも言うべき、かけがえのない大切な証拠物件を紛失してしまった。
それは梨地鞘造《なしじさやづくり》の印籠《いんろう》で、たしかに袂へ入れて邸を出たはずなのだが、聖堂の近くまで来たとき、ふと気づいて探ぐって見るとそれが袂の中にない。邸を出る前までたしかに居間の文机《ふづくえ》の上に置いたことはわかっているのだが、なにしろ朝の時間は万年青で夢中になる習慣なので、置き忘れて来たものか持って出たものか、その辺のところがはっきりしない。これは、というので少々青くなって駕籠を傭って邸まで飛び帰り、文机の上を見ると、……印籠などはない。
座敷の中に棒立ちになってじっくりと考えこんでみたが、どうも落したような気がしない。のたりと座敷に寝ころんでいた阿古十郎にそれとなく訊ねて見たが、そんなものは知りませんねえ、と鼻であしらわれた。
傭人《やといにん》どもは、みな五年十年と勤めあげた素性の知れたものばかりで、おまけに、この居間には番所会所の書類など置いてある関係上、廊下に錠口をつくって、そこからは一歩も入れないようにしてあるのだし、庄兵衛が出てゆくと、すぐ入りちがいに阿古十郎が入って来て、ずっと今まで、ここに寝ころがっていたというのだから、そのわずかの間に忍んで来てそんな素早い仕事が出来よういわれがない。
念のため、一人ずつ糺明して見たが、双互の口合いからおして、一人として錠口までも来たものがないことがわかった。娘の花世に訊ねて見たが、花世も知らないと答えた。
与力の邸へ盗人が忍び入ろうはずもないが、庭へ降りて裏口の木戸を改めて見ると、桟は内側からちゃんとかかっている。
庭のそとはすぐ春木町《はるきちょう》の通りになっているが、高い板塀には黒鉄の厳重な忍返しがついているし、昼間は相当人通りのはげしい通りだから、怪しまれずに板塀を乗り越えることなどは出来ない。となると、やはり持って出て、どこかへ落したのだと思うほかはない。
十日ほど前、芝|田村町《たむらちょう》の路上でちょっとした喧嘩沙汰があった。
斬られたほうは四谷|箪笥町《たんすまち》に住む旗本の三男の石田直衛。双方とも酒気を帯びていて、行きずりの口論から抜きあわせたのだが、相手は直衛の小手に薄傷を負わせておいて逃げてしまった
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