顎十郎捕物帳
稲荷の使
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)獅子噛《しかみ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)年中|高麗狛《こまいぬ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》って
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   獅子噛《しかみ》

 春がすみ。
 どかどんどかどん、初午《はつうま》の太鼓。鳶がぴいひょろぴいひょろ。
 神楽の笛の地へ長閑にツレて、なにさま、うっとりするような巳刻《よつ》さがり。
 黒板塀に黒鉄の忍返し、姫小松と黒部を矧《は》ぎつけた腰舞良《こしまいら》の枝折戸から根府川の飛石がずっと泉水のほうへつづいている。桐のずんどに高野槇《こうやまき》。かさ木の梅の苔にもさびを見せた数寄《すき》な庭。
 広縁の前に大きな植木棚があって、その上に、丸葉の、筒葉の、熨斗《のし》葉の、乱《みだれ》葉の、とりどりさまざまな万年青《おもと》の鉢がかれこれ二三十、ところも狭《せ》にずらりと置きならべられてある。羅紗地《らしゃじ》、芭蕉布地《ばしょうふじ》、金剛地、砂子地《すなごじ》、斑紋にいたっては、星出斑《ほしでふ》、吹っかけ斑《ふ》、墨縞、紺覆輪《こんぷくりん》と、きりがない。
 その広縁の、縮緬叩《ちりめんだたき》の沓脱石の上に突っ立って苦虫を噛みながら植木棚を眺めているのが、庄兵衛組の森川庄兵衛。
 親代々与力で、前の矢部駿河守の時代から北町奉行所に属し、吟味方筆頭市中取締方兼帯という役をあい勤める。罪人の取調べ、市中の聞きこみ、捕物などを掌るので、今でいうなら検事と捜査部長を兼ねたような役柄。これは大した威勢のもので、六人の書役、添役のほか、隠密廻、定廻《じょうまわり》、御用聞、手先、下ッ引と三百人にあまる組下を追いまわし、南番所と月交代に江戸市中の検察の事務にあたっている。
 大岡越前守にしろ、筒井伊賀守にしろ、または鳥居甲斐守にしろ、名奉行とうたわれたひとはみな南町奉行所に属し、れいの遠山左衛門尉が初任当時ちょっとここにいただけで、初代、加々爪忠澄以来、この北町奉行所というのはあまりパットしない存在だった。
 講談や芝居で引きあいに出されるのは、いつも南町奉行所で、こ
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