ちらのほうは、あって無きが如くに扱われる。組下には相当俊敏な者もいるのだが、運が悪いというか、あまり派手な事件にぶっつからない。町方や南番所の組下は、庄兵衛組と言わずに、しょんべん組と呼んで馬鹿にしている。組屋敷は本郷森川町にあるが、庄兵衛はいたって内福なので、すこし離れたこの金助町《きんすけちよう》に手広い邸をかまえて住んでいる。
ひとつまみほどの髷節を、テカテカと赤銅色に光った禿頭のすッてっぺんに蜻蛉《とんぼ》でも止ったように載っけている。朱を刷いたような艶々した赭ら顔は年がら年中|高麗狛《こまいぬ》のように獅子《し》噛み、これが、生れてからまだ一度もほころびたことがない。
ずんぐりで、猪首で、天びん肩なので、禿頭から湯気を立てながらセカセカやってくるところなんぞは、火炎背負ったお不動様を描いた大衝立でも歩いて来たかと思われるほどである。短気で一徹で、汗っかきで我儘。その上、無類の強情で負けずぎらい。痛いとか、参ったとかということは口が腐っても言わぬ。因業親爺の見本のような老人である。
二年ほど前の冬の朝、たいへんな汗を流しながら本を読んでいる。顔色を見ると一向平素と変らないが、なにしろあまりひどい汗なので、一人娘の花世《はなよ》が心配してたずねると、庄兵衛老、れいのお不動様の三白眼で、じろりと花世の顔を睨《ね》めあげ、
「馬鹿め、汗が、なんだ」
と、蚊の鳴くような声で叱りつけた。
よせばいいのに老人《としより》の冷水《ひやみず》で、毎朝三百棒を振るので、その無理がたたり、この時、腸捻転を起しかけていたのである。いよいよドタン場になって、しぶしぶ按摩を呼ばせた。療治の間もとうとう音をあげなかったが、箱枕をひとつ粉々に掴みつぶした。
庄兵衛の強情と痩我慢を、書いていたのではきりがない。この頑固一徹で日毎に番所を風靡するので、さすがの奉行も年番方も庄兵衛には一目をおき、まるで腫れものにでも触るように扱っている。
ところで、この庄兵衛老に弱点がひとつある。
一人娘の花世のことになると、たちまち、なにがなんだかわからなくなってしまう。四十になってからの一人ッ子なので、まるで眼の中へでも入れたいような可愛がりよう。なんでも、うん、よし、よし。したいほうだいに甘やかしている。甥の阿古十郎が、
「叔父上、本所石原の岩おこし[#「おこし」に傍点]で歯ざわりは手強
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