植安の印絆纒《しるしもの》を着た、二十五六の男前のいい職人が小腰をかがめながら入って来た。
「……松の下枝がだいぶ悪くなったから、蛤汁《はまじる》をかけろという大旦那のおいいつけなんで、へえ」
「おお、そうか、そんな話をきいておった。……初午だというのによく精が出るの」
「へッへ、おほめで痛みいりやす」
「陽気に向うと蛤汁は臭《にお》ってかなわんな。……まま、よかろ、関わんから始めてくれ。ついでに下枝もすこしおろして貰おうか。俺がここで見ていて指図をしてやる」
「へえ、お頼み申しやす」
「ああ、それはそうと、万年青がひとつ弱ったんだが、ついでに見てやってくれ」
 ゆっくり顎を振りむけて植木棚を差し、
「その中にある」
 職人は植木棚を見廻していたが、すぐ錦明宝を見つけ出し、
「こりゃあ、えれえことになっている……バラ斑《ふ》が出来ていやすね。……すぐ手当をしねえじゃ、玉なしにしてしまう」
「厄介なやつだの」
「それが楽しみだというおひともありやす」
「ははは、ちげえねえ、どうせ、金と暇のあるやつのお道楽……俺のような権八には用のねえものさ。……まあ、思うようにやって見てくれ」
「こうと知ったら道具を持って来るんでした」
「なにかほしいものがあるのか」
「へえ、……霧噴きお借り申してえので」
「霧噴きか……納屋にあったな、持って来てやろう」
 と、ノッソリと部屋を出て行く。
 植木屋は、そのあとを見送るとそそくさと錦明宝を棚からおろし、息をはずませながら万年青を諸手掴みにする。
 出て行ったと思った顎十郎は、すぐ戻って来て、棚のほうを指《さ》しながら、
「おっと、ちがった、霧噴きは棚の下の木箱の中にある筈だ」
 職人はハッと万年青から手を離すと、棚の下へ首を突っこんで箱の中を探していたが、
「へえ、ございました。……では、お水を少々」
「水なら、この水差しのやつを使え」
「結構でございます……それから、申しかねますが、三盆白《さんぼんじろ》を少々……」
「砂糖を……どうする?」
「これが、あっしどもの口伝《くでん》なんでございまして、葉の合口へ少々ふりこんでやりますと、不思議に生気がつきます」
「おお、そうか、わけのないことだ……いま持って来てやる」
 出て行ったと思うと、またすぐ戻って来て、
「叔父が書見の合間に舐める氷砂糖が、この蓋物に入っている。……これを溶かし
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