しくない。いよいよ苦り切って、
「ふん、そんなこと位ではしゃげるか、貴様でもあるまいし」
そっぽを向いて、またしても、そっと溜息をつく。
顎十郎は、花世から一件の話をきくと、眼をつぶって、叔父の居間の模様をぐるりと頭の中で一回転させただけで、この紛失事件の綾がすっかりわかってしまった。こんなにたわいのないことを洞察《みぬけ》ないで、よく今日まで吟味方がつとまったものだ。日頃の強情にも似ず、すっかり弱り切っている叔父のようすを見ると、気の毒でもあり可笑しくもある。
錠口でガランガランと鈴の音がする。
庄兵衛は急に生き返ったような顔つきになって縁側へ上ると、わざとノソノソと廊下のほうへ歩いて行く。
「なんだ」
小間使の声がこんなことを言っている。
「淡路町《あわじちょう》からの使いで、例のものが、笠森《かさもり》近くのさる下屋敷へ入ったことを突止めましたから、御足労ながら至急こちらまでお出かけ下さい。笠森稲荷の水茶屋でお待ち申すという口上でございます」
庄兵衛は、急に元気いっぱいになって、
「使いの者に、すぐまいると申しておけ。……外出するからすぐ着換えを出せ、早くしろ」
と、地団太《じだんだ》を踏んでわめき立てる。
顎十郎は、のっそりと座敷に上りながら、
「叔父上、なんの御用か知らないが、初午の日に笠森から使いがくるなんて、ちっとばかし眉つばものだ。こいつァ、化かされるにきまっています。悪いことは言わないからおよしなすったらどうです……どうせ、碌な目に逢いませんぜ」
と、例によってわけのわからぬことをいう。
庄兵衛は焦立《いらだ》って、続けさまに舌打ちをしながら、
「えッ、うるさい、なにをたわ言をつく。貴様の知ったこっちゃアない、黙っておれ」
「そうまでおっしゃるなら、お止めしません。せいぜい初午詣をして日頃の不信心の帳消しをするこってすな、なにか御利益《ごりやく》があるかもしれねえ」
ぶつくさ言いながら、本箱から湖月抄を取り出して、ごろりと座敷へ寝ころぶ。本を読むのかと思ったらそうでなく、それで手拍子をとりながら、寝乱れ髪の柳かげ、まねく尾花の朝帰り……と小唄をうたい出した。
庄兵衛が呆れかえって、むっとふくれて出て行くと、入りちがいに花世が入って来た。顎十郎の枕元へ坐ると、きっぱりした声で、
「顎さん、父上はおっしゃいましたか」
「いや、そ
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